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おじさん世代向けHipHop入門講座(その①)黎明期のイノベーション魂

アディダス・スーパースターとカンゴール・ハット
ルーズなファッションに身を包み「CDウォークマン」で音楽を聴きながら
街を闊歩する


これが私の社会人1年生当時の週末のスタイル

そんな若者も今は老害のオッサン

そもそもヒップホップとは何か?



Hip Hopとは “文化の総称” 



アメリカはほとんどが移民で様々な人種が混在している国

その中でも特にアフリカ系・カリブ系・ヒスパニック系の住民が多く集まるニューヨークのブロンクスという地区でヒップホップは生まれました

ヒップホップは「黒人文化」として紹介されることが多いのですが

✅ ヒップホップは『ブラック・カルチャー』ではありません

ヒップ・ホップ文化を作り上げたのは黒人だけではなく
誕生当時からヒスパニック系など別の人種も多く関わっています


【ヒップホップの4つの要素】


『DJ』
『MC (ラップ)』 
『Writing (グラフィティ・アート)』
『Breaking (ブレイク・ダンス)』

この4つに
『知識』
を加えて「5大要素」

『ビートボックス』
『ファッション』
『言語』
『起業精神』
を加え「9大要素」とする説もあります

肌の色や経歴に関わらず様々な人種に広がり、先駆者の築いた基礎を守りつつオリジナルな物を新たに作っていきました。Hip Hopは様々な宗教、文化、国家を持つ人々を誰にでも通じるダンスや音楽、ファッションやアートなどを使って一つに結びつけています

引用:Fabel(Rock Steady Crew)のスピーチより


1970年代のニューヨーク・ブロンクス


『グレート・マイグレーション(Great Migration)』


1914年から50年頃アフリカ系アメリカ人は南部での人種差別の問題から逃げ北部でより良い仕事と総合的により良い生活を求めるために大移動

『ホワイト・フライト(White Flight)』


グレート・マイグレーションによって裕福な白人は、人種が混合した都市から人種が均質な郊外または準郊外へ大規模な退去


1960年代
ニューヨークのサウスブロンクスに主要な高速道路が建設され後(主にクロスブロンクス高速道路)住民の移動が当該地域の貧困と衰退につながります

1970 年代
ニューヨーク市は経済危機に陥って貧富の差は拡大していきます(この差は人種的な区分と分かちがたく結びついていました)
特にサウス・ブロンクス地区には市内にいた黒人やヒスパニック系が追いやられ最貧困層の集まるスラム街へ

ギャングの暴力が横行 廃墟のビルは増え 荒れた土地は増える一方

アパートの大家は家賃を払えない住人を次々に追い出して保険金を得るために人を雇って放火させて1日に3~4件は火事が発生

ドラッグが蔓延してストリートにはヤク中とアル中がのさばった状態でも警察からの対応はなく行政からも見捨てられ

「戦争あとの焼け野原」だと揶揄されほどの無法地帯へ


1970年代前半はディスコ・ミュージック最盛期


ディスコに行けない貧困層のアフリカ系やヒスパニック系の若者たちは
公園などでブロックごとに小さなコミュニティを形成し音楽を楽しむ内輪的なイベントをやるようになります

家から運んできたターン・テーブルを外灯のコンセントに差込み
DJがレコードを回し 若者たちが踊り盛り上がります

主役は基本的にはDJ / MC・ラッパーはサポート役(盛り上げ役)

そんなパーティーは『ブロック・パーティー』と呼ばれるようになり
これがヒップホップの始まりです


ヒップホップの誕生日


1973年8月11日
ニューヨーク・ウエストブロンクスのモーリス地区のセジウィック通り1520番地にある公営住宅内の娯楽室で開催されたパーティー「Back to School Jam」『ヒップホップ誕生地』としてニューヨーク市史跡保存局によって公式に認定されています

《ヒップホップのアンセム》

Incredible Bongo Band 『Apache』


1970年代後半までのヒップホップ


オールドスクール
と呼ばれています

この当時はヒップホップは商業的な要素はなく
ブロンクス地区の仲間内に限定されたムーブメントです


『グラフィティ』だけは新しい絵画表現として
ニューヨークのアート・シーンに受け入れられますが
商業的な成功には至りません

『グラフィティ(graffiti)」は英語で「落書き」という意味

本来描いてはいけないところにスプレーやフェルトペンなどで描かれたイラストなどを指した「落書き芸術」です

描かれる場所は?

● 地下鉄や道路の壁
● 店舗のシャッター
 

など一般的には器物損壊罪に当たるために多くの問題もありました



オールドスクール3大DJ



クール・ハーク(Kool Herc)


「Back to School Jam」でDJを行ったのが当時18歳であったジャマイカ出身
クール・ハーツです

ターンテーブルを2つ同時に使って2枚の同じレコードの特定部分(ドラム・ブレイク)を交互に何度も繰り返す『ブレイクビーツ』を披露

ダンサーたちが楽曲のブレイク部分で最も盛り上がることから
楽曲のブレイクの部分を繋ぎ続けるという手法を生み出しました
(この斬新なアイデアをハークは「メリーゴーランド」と呼んでいました)

『ブレイク』のところでのダンスを『ブレイクダンス』

踊る人を「Bボーイ」「Bガール」と呼んだのも彼です

これが【ヒップホップの音楽シーンの始まり】【DJの基本】となりました



アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)


ブロンクス最大のストリート・ギャング集団 “ブラック・スペイズ” のリーダーだったアフリカ・バンバータ

クール・ハークのDJプレイに影響され DJの技術をマスター

70年代半ばにストリート・ギャング集団が消滅したころに
DJ・MC・グラフティー・アーティスト・ダンサーのヒップホップ組織
【ズールー・ネーション】を立ち上げます

暴力やドラッグなどの無意味さを訴え
正義、平和、自由、愛・・・等
を信念としてヒップホップを盛り上げます

※【ダンス・バトル】はギャング抗争の銃撃戦の代わりに彼が提案と言われています


グランド・マスター・フラッシュ(Grandmaster Flash)


レコードを擦ってリズミカルな音をだす「スクラッチ」などのDJ技術を確立させました

3大DJのなかで一番エンターテイメント性が強い人物


DJプレイ


クール・ハークとスクラッチの発明者であるグランド・ウィザード・セオドア(グランドマスター・フラッシュの親戚)の次の動画をご覧ください


1977年ニューヨーク大規模停電


1977年7月13日
ニューヨーク市中心部で大規模な停電が発生し7万戸以上に影響が出て深夜に全面復旧しました
米メディアによると「変電所の火災が原因」とみられ
地下鉄の一部路線は停止、信号も止まり、エレベーターに閉じ込められた人も相次ましたがケガ人はいなかったそうです

略奪や犯罪が横行しました

なぜか?この大停電後には急にDJをやる人が増えました(笑)


おじさん世代に伝えたいこと


オールドスクール時代のヒップホップはメジャーではありませんでした

ヒップホップ黎明期の時代を振り返ってみると 現代に通じる多くのヒントがあります

✅ 今の環境下で如何にして楽しむか?
✅ イノベーションの種は身近にある
✅ 新しいムーブメントへ向けるリーダーシップ

ヒップホップはスタジオでなくストリートで創造されていきました


クール・ハーク

創始者として多くの「不安」や「迷い」だらけの多くの若者に『感動』『感激』『感謝』を気持ちを教え

アフリカ・バンバータ

「暴力」「抗争」を止めさせ『正義』『平和』『自由』『愛』そして『知識』を必要性を説き

グランド・マスター・フラッシュ

DJ技術をさらに洗練させてヒップホップの素晴らしさを多くの人に伝える


企業や組織の決定権限者になった”おじさん”

働かないおじさんと呼ばれて会社のお荷物扱いされる”おじさん”

やりがいもない会社に居続けるか?独立?悩んでる”おじさん”


ヒップホップは多くの”気づき”を与えてくれると思いませんか?


Check it out ❣


次号に続く お楽しみに❤



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