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R&Bとソウル・ミュージック⑧50年代末~60年代初頭の米音楽業界は”真っ白な世界”

1950年代のアメリカは、冷戦の影響もあり『人種統合』などの”掛け声”は聞こえるものの、現実は『人種差別』は”当たり前”のことだったのです。

メジャー音楽・レコード業界は”真っ白な世界”でした。

”モダンジャズの帝王”マイルス・デイヴィスでさえ

1955年のニューポート・ジャズフェスティバルにおける素晴らしいパフォーマンスによって大手レコード会社コロムビアとの契約となったマイルス

まずは、移籍第一弾「Round About Midnight」(1956)をリリース

次にCBS予算を贅沢に使ったギル・エヴァンス(カナダ系アメリカ人)オーケストラとの共演アルバム『Miles Ahead(1957)』
このアルバムの特徴は、16 人の木管楽器奏者と金管楽器奏者からなる大規模なアンサンブルで、唯一のソリストがマイルスです。

CBSは、このアルバムを大衆向けマーケティングを行い、ライナーノーツでは『マイルスが新人』として扱い、アルバム・カバーは「船の上の白人女性」でした。

当時はアルバム・カバーに黒人が写っているだけで白人マーケットでは売れなかったのです。
(これに怒ったマイルスは、後に自分自身の写真に差し替えます)

マイルス殴打事件

また、モダン・ジャズ屈指の傑作とされているアルバム『Kind of blue(1959)』をリリース後の人気絶頂期のマイルスは、警官に殴打され逮捕されるという事件に巻き込まれました。

1959年の8月の夜、クラブ『バードランド』の前で白人女性をタクシーに乗せるため見送った後、路上に立っていたマイルスに白人警官が「そこをどけ」と言いがかりをつけます。
「おれはマイルス・デイヴィスだ」と彼は名乗り指示に従わなかったら、抵抗したものとみなされ、白人警官から暴行を受けたのです。
マイルスは当時はすでに有名人で、この事件はすぐに多くの新聞の一面に掲載。 この逮捕が違法なもので、告発棄却されるまで2ヵ月がかかります。
警察は、帝王のキャバレー・ライセンスも取り消したことで、2か月間マイルスはライヴ活動が出来なかったのです。


ロックンロール・ブームが行き詰った先に訪れたもの


1950年代中期からのロックンロール・ムーブメントは、白人(特にティーンエイジャー)にとっての”自己表現”として重宝されました。
しかし、「誰かが仕組んだのではないか?」と思ってしまうほど、偶然が重なりあって、瞬く間にブームは去っていきます。

行き詰まった要因は様々ですが、聴衆(レコード購入層)が白人のティーンエイジャーの間で急速に広がっていき、人種の壁を簡単に乗り越えていけるムーブメントを快く思っていない『白人の大人たち(保守層)の抵抗』が大きかったと考えられます。

結果的にレコード会社は、こぞって聴き心地の良いポピュラー・サウンドにシフトしていったのです。

ロックンロール・ブームが過ぎ去ったことで、プリル・ビルディング・サウンドに代表されるソングライター・チーム制作楽曲を利用した白人音楽著作権搾取システムを確固たるものにしたのです。
当時ニューヨークにいた著名な黒人ソングライターは、必然的にプリル・ビルディング内にある「ルーズヴェルト・ミュージック(R&B専門出版社)」と契約していました。


この流れは、黒人アーティストの意識にも変化をもたらして、白人聴衆を意識したと思える「恐ろしいほどのポピュラー・バラード」「他愛のないロッカ・バラード」を歌う黒人アーティストが増えていったのです。

”白人の大人たち公認のグループ”となったプラターズ(The Platters)


R&Bチャートよりもポップ・チャートで受けた

Sammy Turner - Lavender Blue

Phil Phillips - Sea Of Love

Brook Benton - It's Just A Matter Of Time


”真っ白な世界”のアメリカ・メジャー音楽業界は『臭い物に蓋をする』『不都合な真実は”見ざる聞かざる言わざる”』空気に包まれていました。
白人社会は、黒人アーティストの才能を認めつつも、その才能が怖かったのかもしれません。

「良いクロン坊と悪いクロン坊」という両極端な分類法(「良いクロン坊」は身分をわきまえた者で、「悪いクロン坊」はとにかく問題を起こす者)が堂々とまかり通っていた。信じ難いかも知れないが、あるところでは、サム・クックのような独立した人物よりも、リトル・ウィリー・ジョンのような無責任なアーティストの方が遙かに受け入れやすい存在だったのである。

ピーター・ギュラルニック著「スィート・ソウル・ミュージック」より抜粋

この時期に黒人音楽(特にブルース、R&B、ジャズ)は、海を越えイギリスに伝わりルヴァプールを中心とした新しいムーブメントに繋がっていきました。これが「ブリティッシュ・インヴェイジョン」としてアメリカに逆輸入されることになるのです。


モータウン・サウンドは必然


ロックンロール・ブーム後の大人の白人層が認めるポピュラー音楽路線は、ベリー・ゴーディ率いるモータウンにはフォロー・ウインドだったのです。

商業的に成功したいと頑張っている黒人シンガーたちの目標は、黒人をターゲットにした【R&Bチャート(レイス)】でヒットするだけでなく、白人をターゲットにした【ポップ・チャート】でもヒットして『アメリカン・ミュージック』としてのスターになることです。

ベリー・ゴーディが考え方は時代の流れにマッチしていました。

黒人社会の窮状を明らかにすることではなく、白人にも受け入れられる黒人音楽を創り出すことで人種を融合するクロスオーバーを実現でき、黒人の社会での発言力を向上させる現実的な方法

公民権運動が盛り上がってきても、「社会問題には直接的に言及しない」という弱腰とも思える方針は 黒人のアイデンティティを強調する立場の人からは当然批判されました。

モータウン・レコードとしての最初のリリースは
「The Miracles - Bad Girl」

モータウンが育てあげた最初のスターは、メリー・ウェルズ


人種問題に対する態度における混乱(「クロン坊にもスポットライトをあびせてやろう。ただし、トイレは別にしてもらわないと困る」というような、黒人を過度に美化する思いと彼らの残酷なまでに排除する気持ちの混在)は、この時代全体の風潮として珍しいものではなかった。

ピーター・ギュラルニック著「スィート・ソウル・ミュージック」より抜粋


”アーリー・ソウル”とも呼ばれる3人


サム・クック

57年10月「You send me」でソロ・デビュー後のヒット曲は、大抵ロッカバラード風のものです。

ジャッキー・ウィルスン

57年にブランズウィックでのデビューシングル「Reet Petite」
この曲の作者の一人はベリー・ゴーディです。

58年「Lonely teardrops」がR&Bチャート1位となり、ポップス・チャートでは7位を記録。ウィルソンのこの頃のサウンドは『モータウン・サウンドの原形』になったと言われています。


ジェームス・ブラウン

56年にキング・レコードから「Please Please Please」でデビュー


残念なことにキング・レコードの社長シド・ネイサンは「馬鹿げた歌だ。同じ言葉の繰り返しだ。」と非難して、JBの音楽に理解を示しません。

その後、JBはレコーディングの機会を与えられなくなります。

ネイサンがJBとの契約を打ち切る寸前だったのですが、何とか説得して録音したのが「Try Me」


「野球場もタクシーも人種別に分けられている。図書館も同じで、黒いウサギと白いウサギが登場する本は発禁となった。クロン坊の音楽を白人のラジオ局で放送することも固く禁じられている。あらゆるコミュニケーション手段、相互交流を可能にする全ての媒体、理に適ったアプローチ、中道的な意見 その全てが人種差別主義というダイナマイトによってバラバラにされており、鞭、剃刀、銃、爆弾、松明、棍棒、ナイフ、暴徒、警察、そして州機関の多くの出張所職員がこの傾向に拍車をかけているのである。

1960年4月『ニューヨーク・タイムズ』ハリソン・ソールズベリーの記事の抜粋


60年代のソウル・ミュージックは、人種の深い溝を見事に埋めっていくのです



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