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「オシャレすることが平和の象徴」とするサプール文化がなぜ生まれた?①

私は、2014年12月04日(木)NHKのTV番組「地球イチバン『世界一服にお金をかける男たち』」でサプールの存在を知りました。

あのポール・スミスも刺激を受け、コレクションに反映させたというコンゴの紳士たち。土煙舞う道端を、色鮮やかなスーツに身を包み闊歩する。彼らはサプールと呼ばれ、ひとたび現れると、人々が家々から飛び出し、喝采を送る街のヒーローだ。しかし、その正体は平均所得月2万5千円の一般の人たち。給料の半分以上を衣服につぎ込む、その情熱の正体とは!?漫才師のダイノジ・大地さんが、「着飾る」意味を探る。(語り:役所広司)

番組内容(引用:NHKアーカイブスHP)

この番組でサプールの虜になってしまった以降「サプールのような大人になりたい」と思い、ファッションやエレガンスさを真似てきました。

<当時、購入した書籍と写真集>

その後ネットニュース(AFP通信)で、2011年、写真家のジュニア・D・キャナ(Junior D. Kannah)が撮影した、2月10日のステルヴォス・ニャルコス(Stervos Niarcos)の命日に墓地に集まったサプールの写真を見ました。

「え?キンシャサのサプールは、山本耀司や三宅一生を着るんだ」

このことで、ますますサプールにハマっていきました。

また、キンシャサには、サプール5人にひとりの程度の割合で女性のSapeuse(サプーズ)が存在しています。

コンゴ民主共和国は、女性の社会進出が進んできましたが、まだまだ古い女性観との闘いは今でも続いて、当初のサプーズは「女は仕事に就いて、家族の生活を助けるべきだ、不良みたいにふんぞり返って道を歩いていちゃダメだ」揶揄されたそうです。

その後、コンゴの女性たちが、自信を持ち始めて、コンゴ社会の認識も変わりつつあるので、サプーズの数は増加傾向にあります。

2020年:ロンドン大学で理学修士号を取得後、企業幹部を経て写真家となる。世界各地の社会問題、不平等、存続の危機に瀕するコミュニティなどをテーマに、欧米の主要メディアで活躍中の写真家タリーク・ザイディ(Tariq Zaidi)が「Ladies and Gentlemen of the Congo 」と題するサプーズをクローズアップした写真集を発売されました。

すると得意の「So What?(なんで、サプール文化が生まれたのか?)」という疑問が浮かびます。

よくよく考えると、コンゴ民主共和国とコンゴ共和国が、どんな国なのかも知りませんでした。

1973年のモハメド・アリとジョージ・フォアマンの世界統一ヘビー級タイトルマッチ「キンシャサの奇跡」を思い出す程度の知識しかありません。
「キンシャサってザイールだよな?」といった低レベル。
コンゴという名の国が2カ国あることすら知らなかったのです。


調べれば調べるほど、コンゴ民主共和国とコンゴ共和国の歴史の「闇」の深さを知ることになっていっていきました。

巷では、サプールの写真展が開催され、展示会初日には写真のモデルの1人でもあるサプールが来日して自らがスタイリングした衣装で軽妙なステップを披露するといった具合に、日本はサプール・ブームが吹き荒れました。

「流行物は廃り物」と言われるように、いつの間にかサプール・ブームは去っていきました。

サプール人気に群がってきた人々は、ファッション・スタイルにフォーカスするだけ、 というよりも、ファッション関係などの供給サイドが、コンゴ両国の歴史や「闇」について殆ど語っていません。

「なぜ、サプール文化が生まれたのか?」という背景を知ることなく、
更に一部の人からは「わずかな給料で高級スーツを買うなんて家族思いでない」「贅沢でしかない趣味はやめるべき」といったサプールに対する誹謗中傷も広がっていきました。


ベルリン=コンゴ会議(あるいはベルリン西アフリカ会議)

1884年から1885年にかけて、ドイツのベルリンで開催された国際会議で、これによってアフリカ分割(スクランブル・フォー・アフリカ)が公式に認められ、各国の勢力範囲が確定しました。

この会議は、ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクが主導し、全14か国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、英国、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン=ノルウェー、オスマン帝国)が参加しました。

その主な目的は、アフリカの領有権を巡る国際紛争を防ぎ、アフリカの開発に関する基本原則を確立することでした。

具体的には、アフリカ大陸の未占領地への進出を図る列強国間の規則作り、ナイジェリア川とコンゴ川流域の自由通商と航行の原則、そして新たな領土占領の際の通告義務などが規定されました。

この会議により、アフリカ大陸はヨーロッパの列強国によって分割され、各国の植民地化が進行しました。また、この会議を通じて、


ベルギー国王レオポルド2世が私有地として『コンゴ自由国』を設立することが国際社会に承認されました。

当時のコンゴ自由国では、ゴムと象牙の生産が主な経済活動でした。

コーヒーブームで植民地化していたジャワから利益を上げていたオランダに習って、レオポルト2世は、自転車産業の発達と共に、コンゴ自由国の天然資源を可能な限り最大限に利用しようと考えました。

その結果、コンゴの人々は過酷な労働条件下で働かされることとなります。

レオポルド2世はコンゴ自由国を彼の私有地として統治するための行政機関、彼の私有警察である"Force Publique"が設立されました。"Force Publique"は、フランス語で「公的力」を意味。

"Force Publique"は、レオポルド2世が任命したヨーロッパ人(主にベルギー人)の将校と彼に忠誠を誓ったコンゴ人の兵士とで構成されていて、コンゴ自由国の秩序維持と、特にゴムや象牙などの資源の収集を強制するための暴力的な手段として使用されました。

また、レオポルド2世はコンゴの地方リーダーを彼の統治に協力するよう強制し、これにより多くの地方社会が破壊されました。
統治体制は非常に中央集権的であり、地方リーダーたちはレオポルド2世の行政システムに組み込まれ、彼の命令に従わなければならなかった。

地方リーダーは、主にコンゴの先住民族でしたが、多くの地方社会がその伝統的な社会構造と文化を破壊され、地方リーダーたちもまた彼らのコミュニティを守るという役割から強制労働の監督者へと変わっていったと考えられます。

この強制的な労働は、地方社会の破壊につながり、コンゴ自由国の人権侵害の根底をなす要因となりました。


"Force Publique"の一部として知られている最も恐ろしい行為の一つは、収集したゴムや象牙の量が不十分だと判断されたコンゴ人労働者の手足を切り落とすことでした。


このような虐待は、コンゴ自由国における人権侵害の象徴となりました。
コンゴ人がForce Publiqueの一員となった動機や経験は、個々の状況や背景により異なる可能性があります。


広範囲な人権侵害と残虐行為が世界的に知られるようになった

コンゴ自由国での広範囲な人権侵害と残虐行為が世界的に知られるようになったのは、宣教師や他の外国人がこれらの事態を目撃し、報告したことが大きなきっかけとなりました。

エドムンド・モレル(Edmund Morel)

ベルギーの海運会社で働いていた英国人で、彼の業務はコンゴ自由国とヨーロッパとの間での貿易を監視することでした。
彼は、ヨーロッパからコンゴへの輸出と、コンゴからヨーロッパへの輸入との間に著しい不均衡があることに気付きました。

コンゴからは大量の象牙とゴムが輸出されていましたが、その見返りとしてヨーロッパからコンゴに送られる商品の量は少なく、その代わりに銃や弾丸が大量に送られていました。

このことから、モレルはコンゴの労働者が過酷な労働条件と暴力にさらされていると結論づけたのです。

ロジャー・ケースメント(Roger Casement)

英国外務省の役人で、1903年にコンゴ自由国での状況を調査するために送り込まれました。彼は地元の人々から話を聞き、地元のヨーロッパ人植民者からの報告を収集し、人権侵害と虐待の証拠を集めました。彼の報告は「ケースメント報告」として知られ、1904年に公表され、大きな衝撃を与えました。

「ケースメント報告」

コンゴ人がゴムや象牙などの商品を収集するために過酷な労働に従事させられ、しばしば飢餓、病気、虐待で死亡したと記録されています。コンゴ自由国の当局が残虐行為を強制、または黙認している証拠が数多く提出されました。

特に衝撃的だったのは、不十分な生産量を補うために手足を切り落とされるコンゴ人の証言と、その行為の物理的証拠である写真が報告書に含まれていたことです。

これらの証拠はコンゴ自由国の真の性格を暴露し、レオポルド2世の私的統治に対する国際的な非難を引き起こしました。

これを受けて、1908年にベルギー政府はコンゴ自由国を正式に接収し、ベルギー領コンゴと改名しました。

・・・・続く



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