“曖昧”な表現が【リモートワーク移行】を遅らせている
日本人は欧米人に比べて、“曖昧”な言葉を多用しているような気がする。
私の勝手な解釈だが、この“曖昧な表現”を使うのは、“日本人の悪知恵”と思っている。
明確な発言をすると、責任問題に発展するので、“曖昧”は表現をして、責任の所在を“曖昧”にする。
問題が発生した場合、自分の責任になるのも避けられるし、誰か1人が責めを負うことがないような、配慮? といった責任逃れをしやすい“伏線”を張っておく“知恵”のはずだ。
他人と協調して生活することを重要視するという、長い時間をかけて築かれてきた日本人の習慣だろう。
また、日本人の特徴として「謙虚さ」「思いやり」という言葉が挙げられるが、最も適した言葉は【本音と建前の“使い分け”】とも思っている。
日本では公平であることを“美徳”する傾向が強く、そこからはみ出る者を“変人扱い”する。
自己主張することを控えて、本音を隠すコミュニケーションスタイルが多くの人に好まれる。
【日本人の表現心理】(芳賀 綏 著)
のなかに、日本人のコミュニケーションの特徴を6つ上げで説明している。
『語らぬ』文化
『わからせぬ』文化
『流れる』文化
『修める』文化
『ひかえる』文化
『いたわる』文化
この文化は全て“曖昧”の香りがプンプンする。
創業したばかりの企業は、初めてのケースに遭遇しながら対処方法を個々人が学び、その経験によって多様な事態に対応できるようになっていって、【暗黙知】からスタートする。
この【暗黙知】が、その個人だけの能力だとすると効率的に業務拡大していけないので、【暗黙知】を【形式知】へ変換して、社員の誰もができるように標準化できるように、“業務の見える化”や“マニュアル化”だ。
このマニュアルは、外部環境・消費者ニーズなどの変化によって、新しく得られた【暗黙知】を【形式知】していかなければならないので、随時アップデートして、情報共有しなければ機能しなくなる。
企業が大きくなり組織が細分化されていくと、部門間の情報共有は、重要性も増していく。
しかしながら、なぜか?どこかで“目詰まり”が生じて、情報共有がうまくいっていないことで、さまざまな問題が生じていることが多い。
“目詰まり”の原因となっているのは、往々にして、中間管理職と言われている現場リーダーの場合が多い。
論理思考に優れたエリート官僚・管理職だからこそ、昇進してポストと権力(人事権など)を握れば握るほど、そのポストを失いたくないと思う気持ち(自己保身)が強くなってしまうのだろう。
過去のしがらみ、過去の成功体験、特定の人物や組織に対する感情の繋がり、といったことに影響されて、中間管理職の表現は“曖昧”で、経営陣への報告も“曖昧”になってしまう。
どんなに優秀な指揮官(経営陣)であっても、現場長から聞かされる現場の実態が“曖昧”に伝わると、
【“現場の声”よりも“経営陣の思い込み”によって戦略が決定される】
戦略が発表になると、現場では、
「我々の声が届いていない。現場の実態を経営陣はわかっていない。」
という“あきらめムード”が社内に広がって、全てが“曖昧”になっていく。
コロナ禍で突然行われた【オンライン会議】で、
“正確に言葉を発しよう”、
“正確に言葉を聞こう”、
“正確に相手の表情を読み取ろう”として、
“曖昧”な表現をされると、
「どっちやねん!」
「結局、具体的に何をすればいいの?」
と感じたのでは?
面と向かった会議では、【暗黙知】領域に気遣って、【忖度】してしまう傾向が強かったことに気が付かされたはず。
『思いもよらない“誤解”を生んでしまった』
『まったく意図しない意味で伝わってしまった』
対面でなければ伝えきれない【暗黙知】は、当然のことに存在する。
活字や映像化した【形式知】だって、誤解・錯覚・主観による“独りよがり”の理解は存在する。
< かなり雑な分類だが? >
【暗黙知】:フェーストゥフェースで対話・議論することで生み出され伝達されるもの ⇒ <アナログ>
【中間知】:オンライン会議・面接 ⇒ <デジタル&アナログ>
【形式知】:活字や映像で伝達可能なもの ⇒ <デジタル>
Withコロナ時代は、【暗黙知】【中間知】【形式知】の絶妙な”塩梅”が必要なのであって、
絶対に不要なものは?
”曖昧“な表現
【言論と日本人 歴史を創った話し手たち】<芳賀 綏 著>(抜粋)
『言論の自由の有無は、その国の政治体制によることはもちろんだが、同時に社会体質、社会的雰囲気、つまりカルチャーによって支配される。
われわれの社会は、真に、偏見なく、虚心に他人の言論を聞き、理解したり批判したりできる社会になっていない。
「長いものには巻かれろ」という大勢順応は依然として根強い日本人の行動様式である。
「長いもの」は国家権力とは限らない。
むしろ、それ以上に、社会のあちこちに、さまざまな勢力によってさまざまの角度からはたらく心理的圧力こそ当代における「長いもの」である。
それに処して、大勢の中にむしろ自分からとけこもうとする姿勢をあらため、強い個我を持するバックボーンを持たなければ、自立も言論の自由もない。』
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