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世界考


ヒンドゥー世界五大宗教の一角…一つとされている教えのものだ…。
ヒンドゥーと言う言語は、比較的若い時分から、自身の置かれている教育水準の割には結構見知っていた感がある。教えと呼べるものは五つしかなかったんだとも思ったけど…。実質六つか…。
 多神教とされているが、これも最近…2021年に入ってから知ったのだが、ユダヤ教からイスリムイスラムに至るまでのキリスト教を含む一神(しん)教のそれ…同じ神(しん)と言う表現だが、それとはどうやら一線を画すようだ。
 なぜなら、方向性…意識の向かう範囲がまるで違うからである…。片や集権、もう片方はそれぞれが…といった趣だからである…。これは一体どういうことだろうか。
 思うに、そのどちらも両方ともが同時に成り立っていることから、その教義の根差している所は同じなのだろう。一つは戒め…一つは命の在り方をこの世に示しているのではないかと…。世界に同時に存在を成り立たせている点から見ても、どうやら疑いはないようだ。
 ここで、まず一つ目に戒めと言ったが、これはユダヤ教、キリスト教、のちにイスリムと言う教えになる意の、そう、組合せでの効果を生ずると思われるイスラム教の三つの考えの変遷の過程から考慮する事が出来る。ユダヤの天国思想から始まって、キリストのカトリックでそう実現し維持するための生活のあり様を示したが、本来を曲解した一部を目指した者たちの手によって一時混乱の用を呈し、プロテスタントを擁立し、イスラムという段階にいたり永遠を享受し続けるための道を示した…。という事実に感じれることからそうなのだろう。恵みとされる万物の祖は主からもたらされたものであり、主のものとされる価値観の範囲内で収束される性質のものでなければ何事も永遠たり得ないといった趣旨と思われる。額面通り意を受け取るならその通りであろう。実際そうだから。
 次に、ここからが今回言いたい所なのだが、すべての存在が先に触れた恵みを受ける事が出来る訳ではないという現実を認識しなければいけないという観点から…とそう思うと実に懐の深い他宗教同士の見事な信教の結実と認識する事が出来る点だ。命の多様性を内包することで一神教はそのものを唯一へと押し上げたのだ。意識の働きによって。
 論理が飛躍したかに見えるがそうではない…これらの教え五つ実質六つは補完関係にあったと見る事が出来るためだ。一神教は戒律を主体とし、多神教は命の躍動…多神教の解釈は私見だがそんなに間違ってはいないと思うので容赦して欲しいがそう思われる…を内包する。さらに一神教は、そんな命の営みを内包するのだ。仏教は修身と言ったところか…。多種多様に見えるがそれぞれに意味があったのだ。
 このような観点からこの生活圏を見渡すと、感謝の念しか想起しないよと言うのは言い過ぎだろうか。私たちは今、現在、周りに多数の幸せを受けて生きているが、そのうちの何十%がじぶんからなのだろうか。ま、それぞれの集大成を生きるということ、発言になるけれども、この時代、知力を実感するには良い頃合いかも知れない。体系的な学問を踏まえつつね。これまでの。以上。

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