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実在と存在の狭間で ~亡命チベット人の詩の本懐~

そこはチベットとインドの国境付近の山岳地帯、祖国を追われた民は、辺りを注意深く観察しながら、目印をつける――テンジン・ツゥンドゥの詩集『独りの偵察隊』は、このように始まる。

彼には明確な確信があるが、しかしその彼は明確な不在のなかに投げ込まれている。自分はチベット人であるという自己証明と、この世界にチベットという国は存在しないという、そんなホームの不在。

それにしても、どんな作品でもいったん読み終えて暫く経った後、時を経て再度読んでみると、最初に読んだときは気づかなかったその作品の特質に気づいてゆくものだが、テンジンの詩ほど読むたびに新たな発見に見舞われる誌的体験もそうはない。彼の詩は、文章は極めて平易で、素気ないほど日常的に使用される語句と言い回しばかりで構成されており、決して美文ではないし、哲学的な断章もないのに、ところが読むたびにその詩は新たな相貌を覗かせる。まさに、奥深いとはこのことで、詩集を開けばそこにいるのはまったき他者であり、ダラムサラあるいはムンバイでの何ということのないチベット人の日常まで、彼にかかればたちどころに意識の裂け目が現れ、故郷を追われた民たちの、彼らが植えた故郷を思う心の根が育ち繁茂する精神を暴いて見せ、声ならぬ声を聞かせてゆく。

ひとまず、ここで彼の経歴に触れておこう。テンジンにとっては、親たちの世代が人民解放軍の侵攻に遭い、それによってチベットを追われ、そのため彼は亡命の地であるインドで生まれた。そんな彼は、まだ青年の入り口に立って間もない頃、故郷を見てみたいと思い立ち、独りこっそり旅に出て、インド国境を越えてチベットに入ったものの、そこで密告者による通報から中国共産党の治安部隊に逮捕され、ラサの監獄に送りこまれる。3カ月に及ぶ獄中生活の後、テンジンは不法入国した「外国人」として国外追放の処分となり、インドへと戻る。このことは、当然ながら彼の詩作に色濃く反映されている。テンジンは、独り単独行動でチベットに入ったからこそ、チベットで「外国人」として処遇されることの不条理を身に染みて味わった。なぜチベット人である私がチベットで外国人なのか?

そしてまた、インドに戻った彼は勉強したいという渇望と共に、彼自身の述懐によると「亡命チベット人社会から逃れるため」という思いから、ムンバイに留学する。テンジンの詩は、もちろんこういった彼の個人的体験を抜きに語ることはできないが、しかしダラムサラにあってさえ誰よりも強烈に故郷チベットを夢見て、そのために中国共産党によって監獄行きの憂き目に遭いながらも、しかし非常にクールに、簡潔に、端正な声による詩興を奏でる。彼が見て、接し、覗くチベット人たちの亡命生活、その様々な日常が別審級のレベルで交響するのだ。

非常にポップで、誰もが日常的に使う言い回しが、ビートする。しかし、それでいてこの神話的な重厚さは何だろう? 

「存在とは外部性である」、これはエマニュエル・レヴィナスの哲学の根幹を成す定式だが、テンジンの詩を論じるうえでこのレヴィナスの定式は何よりも不可欠であるだろう。レヴィナスの哲学はまず徹底的なハイデガー批判がその根底にあるが、この姿勢はもちろんハイデガーがナチスを称賛した経歴を持つことと無縁ではない。ナチスの強制収容所から生き延びたユダヤ人であるレヴィナスにとって、ハイデガーの存在論は全体性に基づく非人称のもので、暴力によって他者を追放する全体主義のイデオロギーであり、そのためレヴィナスは理論的にもハイデガーに対して真っ向から異議申し立てを行うことになった。

論理学の観点からいえば、チベット人にとって疑いなく中国共産党はかつてのナチスの位置にある。だから命題化において、チベット人とユダヤ人は置き換え可能な位置にある。かつて劉暁波のノーベル平和賞受賞に際して劉暁波の代理としてオスロに赴いた楊建利は、中国共産党の政治体制について「中国の特色あるファシズム」という言い回しで批判するが、これは論理的な告発に他ならない。だから劉暁波のノーベル平和賞受賞自体が、かつて1935年、ナチスの強制収容所のなかにいたカール・フォン・オシエツキーのノーベル平和賞受賞に比されたのも当然のことだった。

レヴィナスはそんな強制収容所から生き延びた。そして、ハイデガーによる全体性の存在論と真っ向から戦い、これに対して無限における外部性の哲学を唱えた。彼は『全体性と無限』の一節で、次のように書いている。

 〈語り〉とはかくして、絶対的に異邦的ななにものかをめぐる経験であり、純粋な「認識」あるいは「経験」であって、驚嘆という外傷となる。(熊野純彦訳 岩波文庫)

亡命チベット詩人のテンジン・ツゥンドゥ、インドで亡命生活を続けるこの詩人の言葉は、まさにレヴィナスのこの一節にあるような「絶対的に異邦的ななにものかをめぐる」「驚異という外傷」であり、そしてジャン・ジュネが言ったように「美には傷以外の起源はない」。

チベット人は、もし彼がインドからチベットに入るなら中国共産党により「外国人」として強制退去させられ、一方でインドにあっては「外国人」として毎年身分証を更新しなくてはならない。彼の身分はどこにいても外国人、つまり絶対的な異邦人であり、祖国を持たない。そもそも、この世界にチベットという国は存在しない。

しかし、もちろんチベットそのものは実在する。インドの向こう、国境を越えた峰の向こうに、チベットは確実に実在するし、だからそこから逃れ、追放されたチベット人も実在する。

ところが、法律的には、チベットは存在せず、インドにいるのは祖国を持たない民である。テンジンによれば、「ダライ・ラマ法王とカルマパ以外の難民は誰も亡命者と認められないのです。法律上、ぼくらは難民とさえ認められません」というのだ。

このように、存在しないはずの者が実在するというこの不条理こそ、まさにテンジンの詩において最大の核となっている。難民でさえないという非人称的な非存在へ貶められたチベット人、そこではまず存在に対して実在=実存(existence)が先立つことになる。以下は、「ダラムサラに雨が降る時」という詩句の一節だ。

 その下の部屋は
 家を失った多くの人たちのシェルターだった

 今ではマングースとネズミとトカゲとクモに占領された部屋
 その一部をぼくも借りている
 この借家こそぼくのささやかな実存だ

テンジンの詩において、家(home)とその家を失った者(homeless people)は、特権的なモチーフである。というのも、彼にとってホームといえば、それはチベット以外になく、だからまたホームレスとは故郷喪失者に他ならない。

ところで、ここで誤解してはならないのは、実在=実存という用語を彼が詩句として使ったとしても、彼はこのことを哲学的に問うているのではなく、あくまでもチベット人の日常として、つまり日常の亡命生活のそのものがチベット人にとっては実在と存在の狭間にあるという不条理を、非常に平易な言い回しによって体現させているということだ。ここが彼の驚異であり、亡命生活の尖端を日常的な言い回しで鋭く露出させる彼の詩は、まるで演劇におけるセリフのように流れる。

実際、テンジンの詩は、〈ぼく〉という一人称による語りの形態をとっていて、彼の詩は独り芝居のようにも読めるのだ。というのも、そこでの〈ぼく〉はその内側に複数性を孕んでおり、場面の展開(つまり詩の展開)に応じて、〈ぼく〉は別の誰かを演じる。ある場面では、〈ぼく〉はテンジンの分身そのものであり、別のある場面になると〈ぼく〉はテンジンの親世代になり、更に別のある場面での〈ぼく〉は放置された死骸になるなど、〈ぼく〉はそれ自体が複数性を孕んでいる。

このように、テンジンの詩における〈ぼく〉は、彼の同胞である別の無数のチベット人を装い、別の誰かを演じて、その言葉が詩になってゆく。

実在と存在の狭間にあって、別の誰かを演じる〈ぼく〉による詩的なモノローグ、これはベルナール=マリ・コルテスの演劇を濃厚に彷彿とさせる。フランス現代演劇中興の祖とされるコルテスの作品はしばしばギリシャ古典劇になぞらえて批評されるのだが、同時に彼は本質的には詩人であり、それはモノローグ劇の『森の直前の夜』などに端的に表れているだろう。そのコルテスは一貫して、旧植民地の側、移民や亡命者の側に立って、〈異境〉から言葉を紡いできた。

テンジンの詩を何度も繰り返し再読して強く感じるのは、テンジンが紡ぎだす言葉はコルテスと同様に、ある位相における神話的な劇――古代のギリシャ悲劇がその原型だが――のセリフを彷彿とさせることだ。たとえば、以下は表題作でもある「独りの偵察隊」という詩の一節だ。

 ラダックからは
 チベットがチラッと見える
 人は言う
 ドゥムツェの黒い丘が見えたら
 そこからチベットだよ
 初めてぼくらが我が祖国チベットを見たときのこと
 急がねばならぬ旅の途中
 その盛り上がった丘に立った

 大地の匂いを思いきり嗅いだ
 土をしっかり握りしめた
 乾いた風と野生の老いた鶴の声に
 耳を澄ませた

 国境などどこにもない
 誓って言うが、そこには何もない
 変わったところなどないのだから

ヒマラヤにある山岳地帯の叙事詩であるこの部分は、神話的な雰囲気をたたえながら、明らかに演劇――それも神話的な劇――のセリフとしても通じる詩句であるといってよい。だが、もっと露骨に演劇のセリフそのもののような詩句もある。テンジン自らの受難であるラサでの監獄体験をもとにした「絶望の時代」がそうだ。以下はその一節である。

 ぼくの頭を埋めろ
 ひっぱたけ
 ぼくの服をはぎ取れ
 鎖をつけろ
 決してぼくを自由にさせるな

 獄中では
 このからだはお前のもの
 だが、からだの中はそうではない
 ぼくの信念はぼくだけのものだ

 お前は手を下すのか?
 だったらこっそりと――ぼくを消せ
 確実にいかなる気配も残さずに
 決してぼくを自由にさせるな

 望むなら、もう一度やれ
 初めから正確に
 懲らしめろ

これは詩というより、明らかに演劇のセリフに近い。テンジン自身の体験をもとにした受難劇である。

それでいて、この〈ぼく〉はそれ自体が複数性を孕んでいて、容易に別の誰かを装う。この別の誰かを演じるということを、今度は具体的に取り上げてみよう。テンジンの詩は、いずれも〈ぼく〉という一人称であるわけだが、ある詩ではチベットに入ろうと山岳地帯で冒険した彼の体験をもとにしていて、そうかと思えば〈ぼく〉は人民解放軍の侵略を受けてインドに亡命する家族の父だったり、あるいは別の詩での〈ぼく〉は人民解放軍にヒマラヤで殺された死骸になって死者の言葉を語る。たとえば、以下は「芽生え」という詩の一節だ。

 体内で燃えあがり
 目玉は飛び出し
 髪は逆立ち、毛穴は開き
 汗は吹き出し、臭気を放つ
 流血、憔悴、吶喊
 ぼくの声は引き裂かれる

 ぼくは野ざらしの死骸
 降り注ぐ雨で
 シャワーを浴びる

このように、詩を語る〈ぼく〉が場面に応じて別の誰かを装い喋る、そのためテンジンの作品は詩篇のかたちをとったモノローグ劇のようにも読みうるのだ。

とはいえ、もちろんテンジンの作品は何よりも詩であり、このことに疑いの余地はない。かくいう私自身、テンジンの作品を演劇だとする主張する気はまったくない。あくまでもそう読むことも可能であるということで、まず第一にこれは詩である。ここで私が強調したいのは、現代文学は既にだいぶ前からジャンル横断的な様相を持つ作品が当たり前となっていて、テンジンの作品もテクストそれ自体がジャンルに対して越境的だということだ。このことは、テンジンの作品それ自体の実存的な意義として重要だろう。というのも、インドからチベットへと越境の侵犯によって中国共産党に逮捕されたテンジンなので、そんな彼のテクストそれ自体が越境的ということこそ表現と自由をめぐる戦いの最前衛にいるといってよい。

また、このテンジンの詩の演劇性は、モロッコ人の作家タハール・ベン=ジェルーンがアラブ社会の伝統的な語りの要素を持ち込んだことにも通底する。ベン=ジェルーンのとりわけ『気狂いモハ、賢人モハ』、この詩的小説はモハという人物による大河的な独り語りが特徴的で、そこにはアラブの前近代から伝承されたフォークロアの口承文化の影響が如実にある。テンジンにしても、彼がインタビューで語っているように、伝統的なチベット文学の特徴は文字によるのではなく、語りによる口承やパフォーマンであり、現代のチベット人作家はそれを土台にしているという。

そこに共通するのは、個人の記憶を超えて、民族の記憶を物語るということだ。それも、受難の民族の記憶を物語る。なぜ〈ぼく〉はテンジンの分身であるだけでなく、〈ぼく〉は親の世代になったり、それどこか〈ぼく〉はヒマラヤの道端で放置された死骸になったりするのか? それは民族の記憶を物語るためだ。民族の記憶を物語るには、語り部は常にその内部に複数性を孕まなくてはならないし、そしてもちろん民族の記憶を物語るにはフォークロアを土台にすることは不可欠である。

ところで、個々の詩句について言うと、最初に本を読んだときには、国境周辺の山岳地帯の部分、監獄体験をもとにした部分、あるいは部屋の外のことを詠んだ部分が強烈に印象として残るのに対し、何度か再読していく過程において、むしろ部屋にいるときの一幕や心象風景などを語った部分が痛切に心に染みてくる。「ダラムサラに雨が降るとき」は先程取り上げた詩句でもあるが、その後半部分は次のように続いてゆく。

 家主の女房はカシミール出身
 八十歳だが、まだ故郷に帰れそうにない
 ぼくたちはよく自慢しあう
 カシミールとチベットの美しさについて

 毎晩、ぼくはこの仮住まいに帰る
 でもぼくはこのままでは死にたくなんかない

 ここを抜け出す活路がきっとどこかにあるはずだ
 この部屋のように泣き寝入りはしない
 すでに監獄で十分に泣いてきた
 次々に訪れる小さな絶望の中にいながら

故郷を追われたチベット人、そのインドでの仮住まいの家主がカシミール人の老婆であるというこの詩。カシミールといえば、つい最近インド政府が自治権を剥奪し、軍があちこちで見張り、戒厳令のような状況のもとで既に相当な数の人々が逮捕されている場所である。カシミールもまたレヴィナスが告発した全体性に基づく存在論の暴力が横行し、その被害を受ける民は増える一方だ。

この暴力に対して、レヴィナスが対置したのは、何よりも他者を迎え入れるということの倫理だった。カシミール人の老婆のもとで仮住まいするチベット人の亡命生活、互いの故郷の美しさを語り合う様子を描いたテンジンのこの詩には、レヴィナスが『全体性と無限』で記した倫理が明確にある。レヴィナスは第2部の(D住まい)で次のように言っている。

 他方、無限なものとの関係は、住まいのうちで集約されている存在に属する、もうひとつの可能性でありつづけている。家が〈他者〉に対して開かれる可能性もまた、閉ざされた窓やとびらがそうであるように、家の本質にとって欠くことのできないものである。

 ここ・いまはそれ自体、ものがそこでつかまれる所有にさかのぼる一方で、そのものを他者に指示することばは所有の本源的な放棄であり、最初の贈与である。語の一般性によって創設されるのは、一箇の共通な世界である。一般化の根底には倫理的なできごとがあり、その倫理的できごとこそが、ことばの奥深い志向なのである。(前掲)

雨が降るダラムサラ、屋根のいたるところから雨漏りによって強襲される部屋で、他者であるカシミール人の老婆が他者であるチベット人の若者を迎えて、互いの故郷の美しさを語り合う。ここにレヴィナスが示した倫理を見ずして、どこに倫理があるだろう。というのも、まずここには相互に外部的な存在があって、カシミール人の老婆も、チベット人の若者も、いずれも外部にあって流亡の身だからこそ、放棄された互いの失われた故郷に思いを寄せ、その美しさを語るのである。外部にいるのでなかったら、ことばでその美しさを自慢し合う必要はない。すぐ目の前に故郷があるのだから。

更にまた、互いに外部にいるから、それぞれが物語る情景に想像力が働く。そして共に相手が語る故郷の情景を想像し合うから、その語り合いには奥深さが生まれる。想像をめぐらすのでなかったら、レヴィナスの言う「ことばの奥深い志向」は決して生まれない。すぐ目の前にあって見れば解かるのではなく、ことばによって想像力に訴え、相手の想像力を掻き立てなければ故郷の美しさを喚起できないからこそ、そこで語られることばは奥深くなる。

ところで、テンジンの外部性はこれまで論じてきたことだけにとどまらない。個人としてのテンジンの外部性は徹底しており、彼はダラムサラのチベット人コミュニティに対しても外部的なのだ。彼はムンバイに留学した理由について、勉強する目的の他に、何よりもチベット人コミュニティから逃げるためだったと明確に言っている。何故なのか?

テンジンは独りで国境を越えてチベットに向かい、そうしてチベットに「不法侵入」したかどで中国共産党にラサの監獄へ放り込まれ、その後「外国人」としてインドへ強制送還された後、チベット人コミュニティに戻ってみたら、彼はいろんな人からさんざん説教され、叱責されて、誰もぼくの気持ちを理解しようとはしなかったとはっきり述懐している。だから彼はそこから「逃げるため」、ムンバイへと向かったのだ。

ムンバイは、インドにあっては抜きんでて先進的な国際都市として知られるが、テンジンはそのムンバイでの生活で演劇や現代アートや映画などにどっぷりと浸った。しかし、それでいて彼はムンバイの地にあっても故郷チベットを強烈に思い、チベットに帰還する夢に恋焦がれた。そもそも、テンジンは故郷を夢見て独り国境を越えた気持ちがチベット人コミュニティで誰にも理解されず、あろうことか盛んに説教をされたことが納得できなくて、それでムンバイに向かったのである。つまり、テンジンのチベット人としてのアイデンティティーは誰よりも強烈なのだ。ましてや、ラサの監獄で過ごした3カ月のことなどは絶対に忘れない。

誰よりも強烈にチベット人としての誇りに満ち、そのことが理解されなかったことで、彼はチベット人コミュニティに対しても外部的になった。そして、だから彼は自分の記憶だけでなく、民族の記憶を掬い上げ、民族の記憶を語ることができるのだ。というのも、コミュニティと完全に同化している者には、コミュニティが持つ記憶を対象化して捕捉することはできない。外部的な者だけが、コミュニティに生き続ける民族の記憶を対象化し、それを掬い、物語ることができるのだ。

もしこのことが解かりにくいなら、たとえば中上健次を思い浮かべてみればよい。中上もまた彼が「路地」と呼ぶ場所で生きた人々の記憶を語ったが、仮に中上がずっと新宮の外に出ることなく、コミュニティと同化したままだったなら、はたして彼は「路地」の記憶を掬い上げることができただろうか?

中上は新宮を出て、東京にやってきて、新宿などでジャズや映画にどっぷりと浸った。しかしそれでいて、中上が「路地」を忘れることはなく、むしろ彼は強烈に自分の故郷について思考していた。

だからこそ中上は「路地」に生きた人々の記憶を救い上げ、雄弁に物語ることができた。対象に対して外部的に存在したからこそ、その記憶を扱って語ることが可能となったのだ。もっとも、この場合の外部とは完全な外部ではない。これはジャック・デリダが言うところの「差延」として説明できる。対象に対して完全に外部にいるのではなく、そこに根差しながら同時にそこから外部的でもあること。

その超越論的なありようをデリダは「差延」という用語で理論化した。ムンバイを志向したテンジンもまた、差延という位相に在ったのである。だから彼は、チベット人の民族の記憶を語ることができるのだ。

とはいえ、もちろん中上とテンジンでは明確に違う部分もある。テンジンの場合、その詩の最大の源泉は彼が育ったインドのチベット人コミュニティではなく、ダラムサラにとって後背地にある峰の向こう側、つまりチベットそのものであり、その故郷チベットにおいてチベット人の彼は「外国人」として監獄に放り込まれた挙句、強制送還されたのである。

テンジンは、故郷チベットにおいてチベット人としての存在を否定され、「外国人」扱いされたことが絶対に納得できない。チベット人として実在している自分は、断じて「外国人」ではないのだ。

だから〈ぼく〉は流亡の地に安住するのではなく、あくまで故郷を夢見て、自らの存在を賭けていつかそこを抜け出すそうと常に決意を新たにする。これこそテンジンの詩の源泉であり、そして彼はその詩を他者の言語である英語で書く。

自分の言語ではなく、他者の言語で書くこと、詩人にとってはこのこと自体が大きなテーマを帯びるのは言うまでもない。

この他者の言語と詩人ということについて、テンジンの姿勢はベン=ジェルーンの「あらゆる言語の予期せざる客」という詩を彷彿とさせる。ベン=ジェルーンはアラビア語ではなく、フランス語で書くモロッコ人作家だが、ベン=ジェルーンの「あらゆる言語の予期せざる客」はチベット亡命詩人として英語で書くテンジンの立場と重なってならない。以下に、ベン=ジェルーンの詩の一部を引用したい。

「沈黙の後背地にひとつの泉。澄んだ水と語と言葉の源泉」、「書くことは、死の敷居で、天国の扉で、泉の番をすることだ」、「この後背地はどこにあるのか。私に棲みつき、夕暮れの風とともに進むこの国は」。

「たぶん、私が密輸された蜜と混ぜ物のはいった油でそれを名づけているからだろう。たぶん、いま、私の国語が本質的な移民を始め、裸の、剥奪された体の方へと向かっているからだろう」。

「私の言語には場所があるはずがない。それはどこにもない。私はそれを私の誕生の泉に掬い、丘を越えて遊ばせてみせる」。

「作家はあらゆる言語の予期せざる客だ。自らの根を作家は彼が行く彼方で養う。彼方では苦悩が彼の体を八つ裂きにするというのに・・・自分の根を彼はいつも持ち歩く」。          (澤田直訳 現代企画室)


〔後記〕
どの本でも最終頁には出版年月日が記載してあるものだが、テンジン・ツゥンドゥ『独りの偵察隊』の出版年月日は今年の6月4日である。この日付が天安門大虐殺の日付であるのは言うまでもない。この『独りの偵察隊』の訳者の一人は劉燕子で、彼女は劉暁波の詩集や伝記の翻訳も手掛けてきた人物だ。

ちなみに、私は劉燕子とは友人の間柄で、テンジンの詩集も劉燕子と夕食を共にした際、彼女から手渡しでいただいたのだが、ページをめくるとそこには彼女の手で「この想いを分かちあうことに感謝 劉燕子」というサインと共に「令和元年六月四日」と記されていた。

天安門大虐殺が起こった6月4日というこの日付は、チベット人にとっても特別だ。テンジンは『独りの偵察隊』に収録されたエッセイの中で次のように書いている。

 当時、学校に通っていたぼくはその映像を校舎で観た。銃と戦車で武装した中国兵が天安門広場を突き進み、同胞である中国人学生を射殺するのを目にしたとき、信じられず、大変なショックを受けた。

 これは中国人にとっても驚くべき出来事だっただろう。それまで、どんなにその軍事的侵略、酷刑、暴力による抑圧などを訴えても中国人はチベット人の主張を信じなかった。

 天安門事件における殺戮はぼくらの中国人に対するイメージを永遠に変えた。僕らは中国にも別の顔があることを認めるようになった。

 明日、中国に日食が現れるとき、我々は中国兵にだけ視線を釘付けにしてバスに乗り遅れてはならない。
 中国に自由を!
 チベットに自由を!

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