3.友人という名の契約関係

「お姉ちゃん、私達って友達みたいだよね」
 
 ビールの大ジョッキを手にした私は、ふわふわとした思考で言葉を漏らした。普段はこんなことを言わないのに、私もこの安居酒屋の陽気な雰囲気に流されたのだろうか。奥の大テーブルでは、大学生が謎のテーブル遊びで大声を上げていた。だから、私の言葉が聞き取ってもらえなかったらどうしよう、だなんて思ったけれど、向かいのテーブルのお姉ちゃんは濃い目のハイボールを飲み干しながら照れ臭そうに笑いだしていた。
 
「姉妹、ではないよね。感覚的にはさ。昔っから互いに似てなかったから?」
「お姉ちゃんは運動音痴だけど、すごく頭が良いしね。あー、高給取りは羨ましいなぁ」
「代わりにアンタは運動、割とできたじゃん?アタシ、結構悔しかったんだよね。アンタばっかり褒められるしさ」
「は?お姉ちゃんばっかり褒められていたけど?記憶の改ざんやめてくれる?それに、社会的にも認められているのはお姉ちゃんのほうだし……」
「だから奢ってくれって?はは、ならもう一杯飲みなさい。これは命令」
 
 ふふ、やっぱりお姉ちゃんは一枚上手だ。きっと、これから続く私の言葉が余りにも悲観的であることを察して、即座に私の機嫌を取ったのだ。だから私は、少しの悔しさを滲ませながらコスパの悪いウィスキーのロックを2杯と数本の焼き鳥を適当に選んだ。どうせ、お姉ちゃんは酔うと私の飲んでいるお酒ばかり飲みたがるのを知っているから。
 
「アンタと飲むのは気を使わなくていいから楽だわ」
「友達みたいだから?でもお姉ちゃんは友達、沢山いるじゃん。私と違って」
「んー。まあ確かに友好関係は大事にしていたけど、それでもやっぱりアンタと飲むのとは違うよ」
 
 店員さんが運んできたグラスを危なっかしく受け取ったお姉ちゃんは、首を傾げる私を氷の入ったグラス越しにじっと眺めている。乱反射した光によってこちらからはお姉ちゃんの表情は見えないが、どこかの開いた窓から入り込む風によって流れる長い髪は、やはり他者を引き付けるだけの魅力が映る。
 
「人を利用し、される事。そう言った類の話は皆、薄汚いものとして口にしたがらないけれど。人間関係って、そういうもんだと思うんだ」
 
 酔いのせいか、その白かった頬は淡い紅に染まり、細めた瞼から覗き込む瞳は私を捉えて離さないでいる。しばしの沈黙はきっと、お姉ちゃんの中で確信を持ちきれない仮説を、同じ血を引く私に証明して欲しいからなのだろう。そうでなければ、そっぽを向いた私へ好き勝手気ままに言葉を続けていただろうから。
 
「……今更気が付いたの?だいぶ遅いね。人間関係って、相手に利用価値があるから、もしくはそうせざるを得ないから築き上げるものだし」
「賢くなったな。アタシの場合は、自分で言うのもなんだけど、人の懐に入るのがうまいから、相手に安心を与えられる。だから皆、私を大事にしてくれるし、私も私を誇れるんだ」
「へー。大事にされる人は素敵だねー。……それで、お姉ちゃんは何を得たの?」
「真面目に言えば、知見、思想、信条、人脈。私は、人がどういう風に生きて、何を信じて、どういうロジックに基づいて生き抜いているかに興味がある。それらの情報を提供してくれる皆を、私は大切にしたいと思っている」
「不真面目に言えば?」
「会社の付き合いもある。しくじっても笑って許される様な関係を築いておきたいのも。はたまた、単純に誰かとつながりたいから、というのもあるし、もっと馬鹿っぽい理由は、楽しいからっていうのもある。いずれにしても、向こうは私のこんな需要を満たしているから付き合っているし、向こうも私を必要としている」
「必要とされるなんて素敵だね。……私に対する嫌味で言ってるなら、その連中は皆、節穴なんだろうなって感想を持つけどね」
 
 もしも、お姉ちゃんの発言が、少年がカブトムシを見つけたかのように、新たな思想の発見を素直に喜び、それを単純に共有したいだけなのだとすれば、私は「いんすた?にでも書きなよ」と答えたはずだ。けれど、東京から名古屋まで時間をかけてまで、その言葉を伝えに来るのは余りにも非効率だから。
 
「誠」
 
 彼女が私の名を呼んだ。
 昔と変わらないように。
 
「私は、お前を必要としているからな」
 
 そっぽを向きながら言葉を吐いたお姉ちゃんはやはり、同じ血を引いているだけあって私の事を理解し切っているのだろう。さっきの話で、ひねくれた私が何を感じるのかも。
 
 私には友人がいない。私に、誰かが価値を見出せる何かを持たないから。
 特別なものを何も持たないのに、何も考えずに生きられる程の度胸もなくて、誰かの持っている特別ばかりに嫉妬して、だからと言って努力によって才能の有無を知らしめられることも怖くて。
 人間、与えられる価値が無ければ見向きもされない。寂しくても、抱きしめてくれる存在など居ない。それが叶うのは、下心を持つ連中に、心情を投げ捨てて下衆な欲求を満たすために大事なものを差し出すときだけだ。
 
「そりゃあ、私はよく出来た妹だもんね」
 
 強がり交じりの微笑みに、お姉ちゃんは微笑みを返す。私の胸中を知らずか、知っていても口にしなかったのか、お姉ちゃんは飲みかけのグラスを差し出した。私もそれに応じてグラスを差し出し、二人で水面を揺らし合った。
 
 やっぱり、私達って友達"みたい"。
 
 血縁によって得られた無条件の加護を心のどこかで嫌悪しながらも、私はそれでもお姉ちゃんの善性だけを信じてグラスの中身を一気に飲み干していた。



 全ての関係というのは契約に基づく。
 
 例えば、朝に喫茶店へ支払った540円は、一杯のコーヒーと静かな空間と心地の良いソファを提供してくれたことへの対価であった。もっと言えば、私がこの540円を支払うために勤務先へ時間と身体を拘束され、社の利益(と無意味な根回し)のために頭を抱えることも一種の契約であるし、疲労困憊のまま帰宅した私は、不動産会社との契約に基づいて住むことになった寮で眠ったり、時折眠れなくなって通信会社との契約によって得られたインターネットという膨大な肥溜めに駄文を放り込んだりする。

 だから、上記の仮説はあながち間違いではない気がする。目に映る物、考え得るものは何かしらの契約が関係している気がする。そして、契約を結ぶためには相手へ利益をもたらさないといけないことも道理であると素直に納得できる。
 多くの場合、この利益は金銭を意味する。お金を支払い、相手が納得して契約が為されれば、私達は様々なサービスを受けられる。壊れた炊飯器を新調するのにも、厳かな雰囲気の寺の拝観にも、はたまた可愛らしいイラストの過激な差分コンテンツにも。
 だからこそ、私達には提供された物品やコンテンツが想像とは異なっていると金額に応じて様々な反応を示すのではないか。高かったのにまたすぐに壊れてしまった炊飯器、たった1,000円を失ったとは思えない程に目を輝かせてしまった雄大な日本庭園の光景、2か月間も更新がないのに月当たり1,000円ずつ自動で引き落とされるイラストファンサイト。その結果に応じて、私達は歓喜の声を上げたり、不満のレビューをネットに書き込んだり、そもそも契約が不当であるとゴネたりするのではないか。

 けれども、一つ、不思議なことがある。
 何故人々は、友人関係や血縁関係だけは利害関係など存在しない神聖なものだと信じて疑わないのか、という点である。

 例えば、誰かから休日の誘いを受けたとしても、誰が声を掛けるかによって判断が変わることがある。その脳裏では、拘束される時間を思い浮かべて、それに見合うだけの利益が得られるかを判断している。
 もしも、相手が好感を持つ相手や、若干面倒だと思おうとも今後の付き合いに影響する場合は、表出する感情に差異はあろうとも、利益を見込んで時間を支払おうとする。逆に、その価値が見いだせないような"人間A"からの誘いに費やす時間は、よれたベッドに転がりながらスマホを握り、二番煎じのネタで滑り散らす無名Youtuberの動画を真顔で見ている時間よりも無価値であると判断するのかもしれない。

 けれども、人々は決して「貴方と友人である理由は、貴方のこの部分に利用価値があるからですよ」とは言わない上、あたかも、そのような考えそのものを悪しきものとして取り扱っているような節があるような印象がある。
 当然ながら、真正面から相手の価値を測ろう、なんて口にすれば殴り合いの喧嘩に発展してもおかしくはない程の無礼であることは承知の上だけれども、価値という動機さえ無ければ、私も、他者も、そもそも人間関係を構築する行動さえ起こさないのではないか?

 けれども、たとえその仮説が正であっても私の心を苦しめるのは、自分の利益を得ようとして誰かに近づこうとする行為に対して”浅ましい”と考えてしまうことと、逆に、誰かに価値を示さなければどの場所にも属すことが出来ないという苦悩だ。
 特に後者は、少なくとも学生の内から競争によって生き残った人々ならば、どこかに属するには能力、即ち価値を証明しなければならないことは直観的に理解できるだろう。学力、金銭、コミュニケーション。何を証明する必要があるかはコミュニティによって異なるだろうが、いずれにしても何らかの長所を持ち合わせなければ、社会、コミュニティに属することは難しい気がする。

 では、そういった価値を求めない場所に居場所を求めようか。いや、私の場合は、それは耐え難いものだ。価値を示さずに属せる場所は即ち、相手の加護を受けるということだ。それは、私にとっては強烈な程に劣等感を覚えさせてくれる。赤子が食事の皿をひっくり返して床を汚しても母が怒らないのは、愛と、赤子の認知能力を理解しているからだ。つまりは、立場が明確に上下に分断されることで、どんな主義主張もまともに相手にされなくなることを、私は恐れてしまうからだ。
 それに、ありのままの等身大の自己を愛してくれる場所はほとんど存在しない。ただ一つ持ち得る可能性があるのは、血縁だ。家族であれば、無償の愛をもって接してくれる可能性は少なくないだろう。
 けれども、たとえ血縁であろうとも、私は他者以上の何者でもないと信じてしまうのだ。もちろん、育ててもらったことに対する恩義はあるし、何か問題があれば、その恩を返すべく行動を取るだろう。
 しかし、私の場合、それはたとえ血縁でなくとも同じ行動をするだろう。つまりは、血縁であることが特別というよりも、単純に接触する時間が長いからこそ信頼が構築されただけに思えている。
 逆に、家族からの視点では、まるで洗脳されたかのように”家族というものは助け合うものだ”とすり込まれているような気がする。だからこそ、私が価値を示さなくとも、特別でなかろうとも、まるで私が偉人であるのと同義な程に強く価値を見出している。所謂、存在そのものに価値がある、とでもいうのだろうか?(個人的には、こういったキレイゴトは非常に苦手であるが)

 だからこそ私は、自己価値というものに大いに頭を抱えている。絶対的な指標もなく、個々によって評価軸が異なり、模範解答も存在しない。そうした熾烈な環境の中でも、人々は平気でコミュニティを形成し、涼しい顔で友人関係という契約を交わしていく。その理解さえ及ばない領域の行動を見よう見まねで模倣しなければ、奇異な存在であると断定され、コミュニティから断絶される。つまりは、生き残るために、価値を証明し続ける必要に迫られている。

 子供の頃は、友人がいた。何も考えずに、ただ楽しいと思える奴とつるんで遊ぶ日々だった。けれども、いつから私は彼らに価値を見出せなくなったのだろうか。先に評論家を気取ったのは、社会ではなくて私自身だったのかもしれない。


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