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音楽家と言語化について考える

誰かと一緒に同じ曲を演奏する上で
イメージの共有の手段として
「言語化」はなくてはならない存在。

ある時は言葉として、
「フランス語というよりは
イタリア語やドイツ語のようにはっきりと」
「グレゴリオ聖歌のラテン語の雰囲気」
「子音じゃなくて母音を立てるように」…etc

ある時は他のクラシック音楽に例えたり、
「ワーグナーのオペラの冒頭のように」
「ジュピター音列を頭にいれて」…etc

ある時は人間の感情の表し方に例えて
内側に置いて巡らせるのか
遠くの人間に伝えるのか

他にも楽典的だったり物質的なものだったり…

目に見えて形状が存在しない「音」の扱い方を
大勢の人と擦り合わせていく作業をする中で、
指揮者の方々は音楽の方向性を示す者として
あらゆる「言語化」の引き出しを持っていて
改めてリスペクトを感じた。

受け取り手としてあらゆる方向で
キャッチできる人間でありたいし、
なんならそもそも自分で作り上げるところまで
本来は持っていかないとな…と

ここまでつらつら並べておいて
今日の着地点は「一生勉強だな」の一言
若輩者の私はやっぱり、
オーケストラも吹奏楽も楽典的な所は勿論
本当はかじりかけた仏語、独語、露語も
本当はやりたいし何からやったらいいんだと
思ってしまうくらい積み残したものは
山ほどあって説得力のある演奏をするためにも
知的好奇心を大事にしてインプットの時間も
意識的に取っていこう…とここに宣言
(しないと多分やらない)
おすすめの本やらありましたら教えてください笑

ということで早速、
グレゴリオの歌詞を検索しながら
学生の頃散々やって
部分的に頭に染みついたラテン語
ミサ曲暗唱テストの懐かしい思い出に
思いを馳せていた(勉強は?)

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そんな事を考えながらやっていた
リハの本番はこちら↓
聴けば聴くほど、
やればやるほど面白い曲たちです。

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