音楽家と言語化について考える
誰かと一緒に同じ曲を演奏する上で
イメージの共有の手段として
「言語化」はなくてはならない存在。
ある時は言葉として、
「フランス語というよりは
イタリア語やドイツ語のようにはっきりと」
「グレゴリオ聖歌のラテン語の雰囲気」
「子音じゃなくて母音を立てるように」…etc
ある時は他のクラシック音楽に例えたり、
「ワーグナーのオペラの冒頭のように」
「ジュピター音列を頭にいれて」…etc
ある時は人間の感情の表し方に例えて
内側に置いて巡らせるのか
遠くの人間に伝えるのか