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独占欲とシェアザライト
楽しいことはできるだけシェアしたいし、美味しいものは何人かで笑いながら食べることがスパイスになる。孤独は楽だし、1人でいることは苦痛では無いけれど、楽しい時間や空気のシェアや光の共有みたいなものも嫌いでは無い。
独占するより、持ち寄って交換することの方が楽しいし、抱え続けて奪われることを恐れての疑心暗鬼や憎悪が膨らむことは、生きる上で無駄だしつまらないとさえ思う。
それでも、大事な人との時間は他の人に触れてほしく無いと思ってしまう幼稚さが自分の中にはあって、わかりやすい束縛やヤキモキ混じりの嫉妬みたいやものよりも、静かな不快感みたいなものをその時間には感じてしまうのだ。
今はそういう相手はいないし、そんなきもちになることはないのだけれど、幼少期に親と過ごす時間が限られていた時期があるから、依存心が強くなる傾向はあるし、それが相手に負荷を掛けてしまったこともある。
楽しい時間の誰かとの共有することと、大事な人との時間は別物であるが、関わりに対しての意識がジキルとハイドほど違うのは危ういと思う。二面性というか、人間形面体であるとしても許容しかねる部分。
大切な人との時間は温もりであり、日頃の楽しい分かち合いたい時間は光なのだろう。光は分かち合うことはできるが、温もりはそうしたくなくて、独占したがる幼子のようなエゴイズム。
それが怖いし、人と深く関わるのがこわくなっているから、出会いなんてないし、ただなんかいいなという空気の緩さやぬるさをシェアできる光をこそ必要としているのかもしれない。
ぼっちの独占欲より、依存としての愛情は同じ我欲だとしても毒性が高いような感覚があるのだ。毒抜きして、息抜きして、ふわっと大切な人を縛らずに奪わずにいられる人間性があったら、違う未来にいたのかもしれない。
過去の光は今もひかる。懐かしさと痛ましさを持って今もわがままなままだ。
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