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教育と洗脳と記憶喪失のトリデンテ

あまねく教育は洗脳である。

ある種の生き物は、自分が生まれ出て最初に見た動くものを親、あるいは庇護者だとインプットされるらしいが、刷り込みだとか、インプリンティングというやつだ。

最近の親の一部が、子供の躾を学校に押しつけているのは、だからそういう意味では歪な状況であり、共同生活(笑)を学ぶための基礎要素は家庭で修学までに親が叩き込む、あるいは条件づけるものだろう。言い方は悪いがペットの躾みたいなもんだと私は思う。

私は田舎の田舎みたいな場所で育ったのだが、いま考えるとなかなかにリベラルに染まった教師が多い地域だったようで、実際に教師だった私の両親もレベル差はあるにしろ、それなりのレフティ思考であったとは思う。

幸いにも親が子供に己らの思想を押し付けることはなかったし、自分の頭で考えることを勧められたのはありがたかった。最新廃止になったらしいが、小学校の低学年時にも学級文庫にはだしのゲンあったからな。

はだしのゲンは名著である。特に、原爆が落とされた後の子供たちが生きて成長していく過程は、悲劇だけでなく生きていく強さと悲しみを描いていると思うが、中盤や終盤にかけては思想が強すぎるように思う。

戦争の悲惨さを教えるにしても、せめて中学、早くとも5から6年生までは待つべきであろうと今の私は思う。

あの先生方は、戦争が巻き起こす悲惨さや、そこから生まれる悲しみや苦しみを早期に叩き込みたかったのかもしれない。私の親も、反戦思想は強かったし、幼い私に放射能汚染の世界を舞台にした【風が吹くとき】というアニメを見せたり、火垂るの墓を見せたりと、なかなかといえばなかなかだな。低学年ではなかったにしろ。

三つ子の魂百までというように、幼い頃に植え付けられる印象は、呪いのように成長しようが影のように残りやすく、情報や知識の種を植え付ける時期を誤れば、人格形成に重大な禍根を残しかねない。

さんざタレントが性教育うんぬんと、海外での状況と日本との差を考えずに早期に導入すべきと息巻いているが、それとて上記したように時期を誤れば悲劇の連鎖を生み出すように思う。海外の一部のように、みな家族で性を語れることがスタンダードだなんて思えないしな。


まっさらなキャンバスに、どんな絵画を描くのかという前に、書くための道具を用意したり、販売する人たちが、あからさまになんらかのモデルを用意したり、道筋を狭めて誘導するようなことは避けるべきであるが、さりとて、最初から思うがままに内なる世界をアウトプットできる人間は多くないからベースは教える。

それが教育なのではなかろうか。昨今の芸能界やスポーツ界など隔てられた場所で隔離に守られていたパワハラやヒエラルキーの強制に対しての拒否感や異常性に対しての是正がなされようとしているが、学校という場所もまた特殊な場所であり境界である。

ある時期まで、強制的に拘束されて、一定の情報を与えられるシステム(本人の義務でなく保護者の義務だから拘束ではないと考えられなくはないが)


価値観を与える、植え付ける時点で教育が洗脳であるとするなら、自我が芽生えたのちに音楽や漫画、あるいは小説や、思春期に始まる性的衝動に依る恋愛幻想から始まる人を想うということなどから、それら洗脳からの記憶喪失と一時避難が始まるのもまた卒業によるものか。

尾崎豊の歌った卒業でもなければ、斉藤由貴的な卒業でもない卒業。しかし、なんという皮肉な2人の曲名の一致なんでしょうね。ある年代の人にしか伝わらないのが残念だけれど。

教育で与えられたものを自我のフィルターで濾して、日々の経験から得たもので固めて作られていくのが人間性であるのだとしたら、学業の終わりから社会での実地体験へとフェイズが変わるだけで、呪詛のような生涯学習というやつが始まるのだろう多分。

全ては抱えきれないから、アルコールや趣味やなんやかんやで適度な記憶喪失を望むんだろう。

刷り込みに関しては、性教育について含め、もっと馬鹿馬鹿しく今後も書けたらいい。仮に読んでくれた方がいるとしたら、こんな理屈っぽい文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

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