僕の宗教にようこそ
タイトルは筋肉少女帯の曲名。
なにかしら事業をやるなら、日々の地獄を泳ぎつかれている人たちが呼吸をできるような場所を作りたいと思う。海の旅路の中継地みたいな場所。
既存の宗教は、素晴らしいものも多々あろうが、自分がこれまでの日々で見聞きした感じだと、どうしてもヒエラルキーであるとか、拡大していく過程での主導権争いであるようなものが見えてしまってな。
自分にとっては音楽と文章が支えで、だからこそミュージックセラピーであるとか、ライブが人々に与えるポジティヴなヴァイブスであるとかについて調べたり、考えるのだけれど、調べれば調べるほどに万人に共通するものがあまりなくて、面白いと同時に難しいなと考えてしまう。
例えばヒップホップが好きな人と演歌が好きな人は、おそらく心地よいと感じる音階もメロディも違うだろうし、ハードコアとクラシックも違う。
そんな中で、小さなコミュニティを幾つも有して、それぞれがそれぞれの心地よい場所を探しながら共生していけるようなものはないかと考えたら。60年代のヒッピームーブメントや、ウッドストックなどの古来のフェスがそれに近しいのではないかと考えた。
衆生救済を目的とせず、気の合う仲間たちが集って日々の鬱屈を晴らすような宴を日常の中の非日常として開催できるようなものがあれば良いのだが、例えはアレだがハプバー的なものであるとか、それ系のパーティーだって反社会的な扱いで摘発される世の中だ。参加したくはないが、サバト的なものを国家が弾圧するのも、実は怖いことのような、、、。
おそらく、フェス、しかもウッドストック的な精神性の高いものを今日に召喚するのは非常に困難であるし、できるならとっくに誰かがやっていると思うが、ビジネスとして成立するそれと、音楽フェスの音楽以外のしがらみみたいなものが難しくしているのだろう。
それを宗教というフィールドでは再現できぬものだろうかと思うのだ。それが一番なされていたのが、繰り返すけれどフラワームーブメントであるとか、ヒッピー文化だったのではないだろうか。
それが廃れた理由や時代の移り変わりを超えられなかったものを調べて、法的な問題とそれをクリアにする思想を組み立てられたら、音楽を平和にうんぬんという左向きに使われがちなフレーズでなく、救いとして、あるいは日々の中で折れた気持ちの添え木のようなものを作れるのではないかと思う。
ただね、音楽やアートから受ける感覚は個人的な宝物だから、シェアしたり、されたり、まして強要されるものではけしてないと思うからさ。ゆるやかに、限定的になんとなく音楽を居場所とできる団体がありゃいいし、ないなら作ってみたいんだがな。
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