以上、私がお送りしました。
生まれては消える、思いや言葉を形にして残すということは1秒ごとに潰えていく時間に墓標を与えていくようなものではないだろうか。
笑おうが呻こうが、人生の時間は過ぎていき、固定されて反転できない砂時計の砂は落ち続けていく。残念ながら、それを止めることは誰にもおそらくはできない。
八百比丘尼が食べたとされる人魚の肉を我々は食べることができないし、テロメアによる老化を止める術は解明されていないし、生まれたなら必ず死ぬ。
それを残酷な運命と考えるのか、旅路の猶予と捉えるのは個々人の価値観なり死生観で変わるだろうが、いずれにせよ長短それぞれの生きる時間が我々には与えられている。
他人と比較しての良き人生なんてわからないから、理想的な生き方なんて想像もつかないけれど、逆説の理想的な終わり方、理想的な消え方についてはなんとなくだけれど思うことはあるのだ。
それは、ゆるゆると眠るように力が抜けていき、最後の瞬間にのみ微かな活力を取り戻して、悪くない人生でありした。以上、私がお送りしましたと宣言して力尽きるというようなもの。
生き方も死に方も、自分で選べるようでいて、実はそうでもないから、最後がそんな形で終われば良いなと考えて、そこに添えるように過ごしていけたらなと思った。
希死念慮が近寄ってくるような日には、まだまだ理想には遠いのに、こんなところで、くたばってたまるかよという意地で世の中を泳ぎ続けているような決めしているから、こういうくだらない考えもたまには有益なんだ。
以上、私がお送りしました。そう言える日を私は待っているのだと思う。
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