普通を殺したら平和になるの?

ホストの朝、胃痛と眩暈、耳に残るノイズとやけに刺さる太陽の睨み。それが夜職の朝を迎える日常であるとしたら、月曜日から金曜日までの公務員的ルーティンな日常とそれは同じではない。

生きている限りは迎える朝と夜。流れる1秒にはなんら変わりがなく、起きていようが眠っていようが、愛し合っていても憎しみあっていても、殺し合っていてもそれは変わらないのだ。

それなのに、世間は標準値や平均値としての【普通】を強制する。異なる習慣、異なる地域、異なる環境でもベースラインを引きたがるというわけか。普通に普遍性はあるのかと問われたら、そもそもが変わらないものすら変わっていくからねぇとしか思わないのよね。

戦場における日常、血と硝煙と張り詰めた空気。イメージのそれが具現化することの少ない国の電脳の海では知識だけが蓄積した人たちがその是非を論ずるという地獄絵図が展開している。私もまた波間に漂うその1人であり、カルネアデスの板を奪い合う悪意の1人でもあるのだろう。

様々な差別反対や性の商品化うんぬんに何かを申したがる当事者や利権化したい議員たちの【普通】で世界を塗り潰そうという正しさに吐き気を覚えながら、日々は転がっていって、だから博物館の展示物を選定するような視点で多様性なんて簡単に言えてしまうのだろう。

本当に差別をしているのは、あなたがたの方ではないのですかと言ってやりたいが、関わりたくもないし、それぞれがガチガチに固まり切った思想・思考で中庸を見出そうともせずに殴り合ったとて不毛どころか害悪だろそんなもん最悪かつ災厄だ。

ゆるやかな無関心と距離感と密かな臨戦状態でしか、均衡は保てないと個人的には思うが、それはあくまで自分の感覚で、それが普通かどうかなんてどうでもいい。

大変申し訳ないけれど、世間の普通を気にしながら生きてきても良いことなんて0.1mmも無かったから、そんなもんに囚われすぎるのは時間というか命を無駄にしていることになるから、参考程度にしかしない。

自分が俯瞰する普通は苦痛じゃないけれど、押し付けられる普通は苦痛なんだと声を中にして言いたい。大にするくらい強いメッセージはないし、殴られなければ殴り返すつもりもないが、殴られっぱなしでいるつもりもないよ程度の話だ。

平和も普通も当たり前じゃないから、それぞれのスタンスで殺さぬように、殺されぬように転がっていったらいいんじゃないんですかねえ。

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