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夜しか泳げない

行為の最中、彼女は魚になったような錯覚を覚える。

水を得た魚というけれど、では彼が水かと問われればそうではなく、己の体と相手の体が交差する場所にあふれるものが海であって、それを求める感情そのものが水源なのだと思う。

海原でどこが海の始点であるのかがわからないように、情欲が先立つのか、世間的に愛と呼ばれるそれが先であるのかを彼女は知らない。考えたいとも思っていない。それでも、そんなことが頭に浮かぶのは彼がいつもそんなことを言うからだ。



薄笑いでやり過ごした今日が恥ずかしいと彼女は思う。彼女は笑い方を知らないわけではなく、笑いたいと思うことが少ないのだ。

だから、彼は彼女の事をクールだとは思わないし、彼女も自分のことをそうだとは思わない。ただ表情に乏しい人間だと認識していて、彼はそれを好ましく思うというだけの話だ。


深海に住む魚がいて、浅瀬に棲む魚がいて、淡水と海水どちらでも住める魚がいるということ。それと同じで、彼と彼女が同じ場所で暮らし、行為を重ねるということは不思議なことではない。別に運命だとか赤い糸だとかは信じていないけれど、泳ぐ場所と棲息する場所が近いことに心地よさに似たものを感じられる相手が見つかった。それが彼であり、彼女であったというだけなのだ。


呼吸を重ねるように唇と視線を。それは愛と呼ばれるものでも、情慾と呼ばれるものであっても別にどちらでもいいと彼女は思う。体から汗が流れていく時に、同時に自分は水分を補給するように何かを彼と交換しあっていると感じる。


彼は眠るように静かに彼女の胸に顔を寄せ、彼女は彼の頭を抱えながら眠る。海の底に潜るように、鼓動を聴きながら眠りへ沈む。


そこは静かの海でもなければ、深海でもない。けれど、そこにはそこにしかない場所があり、彼はそこに、彼女はそこに魚となって潜っていく。

夜は長い、彼も彼女も、夜しか泳がないし、夜しか泳げない。

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