子供じみた哲学

子供にまつわる哲学に関して、これまで言われていたのかもしれないがあまりきちんと知られていない、しかしある意味では最も哲学的に重要な点を言っておきたい、との思いに至った。その理由はとても簡単で、まだまだ哲学など何も知らない私が、哲学について一般的に語るのはやはりおかしいからである。哲学などというものを何か分かっているかのように語るのはやめるべきだからである。そして、それをどのようにするかといえば、哲学がどんなものかを語るのはやめて、私の哲学をそのままやって見せるしかない。それだけが、哲学の実践なのであり、哲学について私が語ることのできる唯一正しい方法である。私はしばしば「唯一正しい」という言葉をこのように「まことに残念なことに」という落胆の感情を込めて使う。

哲学することなしに哲学について語るのはおかしいし、また私が実践しているのでない哲学について語るのもおかしい。なるほど、哲学することなしに哲学について語ったものが何かを言い当てていることもある。なるほど、私が実践するのでなくとも哲学は確かに存在する。しかし、そのようなことを受け入れたとして、では一体本当に何を受け入れたことになるのか、私には全然分からない。哲学することなしに哲学について語ったものが本当に何かを言い当てているとしても、哲学することという観点において、本当にそれは何かを言い当てているのだろうか。私が哲学を実践するのでなくとも哲学は確かに存在するのはまさにそうであるが、ではそれを私はどうやったら実践できるのであろうか。これらのことを本当に「知る」まで、私は何も大したことは言えはしない。しかしもちろん、そのことを本当に知るときには、かなり大したことが言えはしよう。しかし、そんなことは可能なのか。哲学することなしに語られた哲学が何かを言い当てている、ということを本当に知る、ということはどういうことなのか。私が実践するのでないような哲学が確かに存在することを知るとはどういうことなのか。一体何をもって「知る」ということになるのか。一体どうして他ならぬこの私がある限られた実践を持って「知る」ということに至るのであろうか。

さて、私の周りには哲学に関わるたくさんの人がいる。そしてまた、私の周りには哲学に関するたくさんの書物がある。さらにそのうえ、私の周りには哲学すべきである無数の問いや謎がある。私は、そのような人々の中の幾人かと付き合うことになり、また幾らかの書物を読むことになり、さらに幾らかの問いに取り組むことになる。そして、そのうちのほんの少しの人のことを理解し、ほんの少しの書物を理解し、ほんの少しの問いに答えようとする。そうしたあげく、ほんの少しの人のある一時期のある場面のことだけを知り、ほんの少しの書物のある一節だけを知り、ほんの少しの問いのある一面からだけの答えをだすことになる。そして、これ以上には何もできない。これほどの私は無知であらざるえないが、そうである以外にどんな他の仕方も可能ではない。このような無知をどれほど自覚したところで、事態が何か好転するわけでもなんでもない。ただただ、無知であらざるをえず、何か一端のことを知っているなどと思っている暇はどこにもないのだと自分に言い聞かせることくらいが最善のことである。つまり、自分が無知なことを「知っている」からといって、「無知である」こと以上の何かを手に入れるわけでは全然ないのである。むしろ逆に、初めから自分の無知を知ろうなどとしてはならないのであって、自分が無知「である」あるいは「になる」ことによって、そうであるとのことを「知るに至る」のでなければならないだろう。

こうした無知「である」態度は子供に特有なものであり、我々大人はこれを「子供じみた」と形容する。私の「対話の哲学」は、そのような「子供じみた」哲学という意味で、「子供の哲学」である。そして、私の子供の哲学の先達は、無知で頑迷である子供たちと無知で頑迷であることを知っている哲学者たちである。これら先達たちとの「哲学対話」が、子供の遊びpaizeinと言われる。

子供のための哲学でもない子供の哲学でもない哲学が、大人にできる最善の哲学であろう。大人みたいに目配せしたり装ったりするはやめ、子どもみたいに純粋にも透明にもなろうとせず、ひたすら無知に頑迷に、分かった気にだけはならない、それが子供じみた哲学である。これが私の無しうる限り唯一正しい哲学である。

子供の哲学に子供の問いがあるなら、子供の答えがある。子供の問いと答えがあってこそ、子供の哲学対話である。子供の問いが子供じみたものなら、子供の答えだって子供じみたものである。子供じみた哲学対話が哲学でないでなんて、どうしてそんなことが言えるだろうか。

対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。