幸福はなぜ哲学の問題になるのか 読書ノート的なもの

幸福はなぜ哲学の問題になるのか (homo viator)
青山拓央
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0 背景

 先週すすめられて読み始めた『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』。結構ぐいぐい読みすすむことができたので読書ノート的なものをここに残しておこうと思う。後に述べる「独自性のある国内研究を真っ当に評価する専門家集団内の文化」の形成のためならば、自身の無知や無理解を曝け出すのを買って出るほど私は蛮勇である。何しろそれは哲学に不可欠な勇気なのだから。

1 概略
 本書全体のなかでは、2章及び6章が特に私の関心の中心に位置するものであったがしかし、以下では、長大になることを避け、私にとって印象的であった箇所のほんのいくつかを選んで引用し、言いたいことがあれば少しだけ言ってみようと思う。本書全体の基調ともいうべきものを理解するのは、私にとっては比較的容易であったと感じている。これは著者の『時間と自由意志』を並行して読んでいたことが影響しているのかもしれないがそれは間接的な理由であって、直接的な理由の一つには、著者のアリストテレス倫理学に対する深い関心が、私のそれとある程度まで一致しているからだろう。

2 幸福実在論を徹底すると観念論になる
 注目すべき議論の一つは、幸福実在論の徹底化が観念論になる、という議論。

p69-70
「私のこの現実の背後に、他のどんな可能性があるか」。そこにたくさんの不幸の可能性を見る人は、可能性との対比においていま自分が幸せであることを「知る」でしょう。そして、それを知ることで---幸せを感じていなかった人でも---幸せを感じることがあるでしょう。ここにおいて幸福実在論は、実在論であるからこそ観念論化します。初めから観念論であった場合よりも根の深い観念論となります。幸せであることとそれを知ることの切断によって、幸せだと知ることで幸せになる道が開かれるからです。
 幸せだから幸せだと知るのではなく、幸せだと知ることによって幸せになる---。本来ならそんな道は存在しないはずですが、現実の背後に他の可能性を見ることで、それは実際に可能となります。そしてここにこそ、充足とは何かという問いに対する一つの答えがあるのです。

3 ムーピーの懐疑とニヒリズム
 手塚治虫の火の鳥に出てくるムーピーの話。ムーピーの懐疑と名付けられているこの節では、ちょうど今週の月曜日にゼミで議論されたことをもとに考えたことがあって、それと繋がるような問題が論じられていると感じた。古代・中世の哲学にはなく、近代現代の哲学がそれを中心と問うているのは何か、ということがそれである。それは、反省意識や自我ということで問われているものよりはむしろ、認識論的懐疑やニヒリズムで問われているものなのではないか、と私は思っている。次の文章はそのことを想起させた。

p123
愛情に満ちた二人のゲームは、マサトひとりによる、しかしマサトはそのことを知らない、虚無的なゲームとしての相貌を見せるのです。

4 下手さを直視することで自由になれる

「スタイルを学ぶ」と名付けられた節ではキース・リチャーズのギターチューニングのことが述べられている。

p154
反対に出せなくなる音は山ほどあるのですが、重要なのは、どの音が自分には必要かを知り、そして自分の下手さを直視したうえで、自由なやり方でその音を得ることです。

「自分の下手さを直視したうえで」というのが特に注目すべきだろう。自分の下手さが直視できさえすればそれだけで、十分自分は自由になったと私は感じるからである。

p159
日本の哲学研究には独自性がないーーー海外の哲学の後追いにすぎないーーーという風説がありますが、本当に欠けているのはむしろ、独自性のある国内研究を真っ当に(お世辞ではなく的確に)評価する専門家集団内の文化です。それは研究作法にも現れていて、たとえば論文を書くときに、ーーーよい邦語文献がある場合でもーーー海外文献にしか言及しない例などはよく見られます。研究者は、私を含め、自分の重要感にこだわりがちですが、周囲の研究者の重要感を真っ当に満たす文化がなければ、集団内での相互作用による議論の成熟も起こらないでしょう。
p165
学術発表のような場では発表後によく質疑応答がありますが、その際、発表者と質問者は対等でない(と考えたほうがたいていは良い)ことは、あまり認識されていません。発表者には論脈ーーー議論の文脈ーーーを決める権利がありますが、質問者にはなく、質問者は発表者の論脈を無視して「自説」を述べてはいけません。これはもちろん、質問者は批判をしてはいけないという意味ではなく、質問のふりをした「自説」発表によって自己満足に陥ってはならない、ということです。

言いたいことはたくさんあるのだが、涙をのんで(?)、次のことだけを言うにとどめる。「独自性のある国内研究を真っ当に評価する専門家集団内の文化」と言われているものは、おそらく、「文化」と言われるほど軽視されるべきではない。(もちろん、著者がそれを「文化」としてしか考えていない、と私は非難しているのでは全くない。かえって私は著者の指摘のある点を徹底化した形で擁護しようとしている。誤解のなきよう。)「文化」でなく「哲学」と言われねばならないもので、その点で、本当に欠けているものはやはり、哲学である。言い換えれば、日本の哲学研究は、哲学として徹底されていない。参照されているのが邦語文献だとか外国語文献だとか、論文に独自性があるかないかとか、を評価することは哲学でないということを専門家集団が知らなさすぎるのである。著者は補足として、p165で学術発表の際の発表者と質問者の非対等があまり知られていないことをあげている。しかしこれもまた補足どころではなくて、哲学研究者が哲学のふりをしているだけでどれほど哲学そのものを学んでいないかを示す本質なのである。「質問のふりをした「自説」発表によって自己満足に陥」るのは、まさに哲学者philosophosと詭弁論者sophistesや弁論術家rhetorikosとを分ける本質的な点である。にもかかわらず、そのことを全然知らない。挙げ句の果てには、専門家集団は自分のことを「哲学」者だとか「哲学」研究者だとか勘違いしている。彼らは哲学そのものには関わりはしないでその傘下の一部に関わるただのプラトン文献調査係やアリストテレス翻訳家や心の哲学消費者や倫理思想小売業者にすぎないのに、である。無知とはまさにこのことであり、哲学はその無知の自覚から始まるはずなのに、専門家集団は、そこから始まるまさにそこのところで、哲学を裏切っている。
 何において裏切っているかといえば、質問を真に問いとして扱っていない点である。問う、答える、ということを純粋に実践し、その論理に終始しようとしないから、専門家集団はおべっかをつかったり教養をひけらかしたり、語学自慢をしたり、という哲学にとっては無駄な仕事に余計に精を出すことになるのである。
 長くなったのでまとめておけば、著者がいう「文化」はつまるところ哲学そのものに他ならず、その哲学を実践するための対話を、つまりただ端に問うことを、知らない専門家集団は決して哲学者や哲学研究者と呼ばれるに値しない、と著者は言いうる、と私は主張している。

6 一つずつ遊ぶ
 5章の中では「一つずつ遊ぶ」p197が好きだ。著者がp176で述べているところによれば、著者の個人的な趣味として、「たった一つだけ、小さな子どもに人生訓を伝えられるとしたら」、これだということだ。思い出すに、子供の頃私は自分自身に何をするにしてもここで言われているような意味で「一つずつ遊ぶ」ように言い聞かせていたような気がするのだ。どうしてそんなことをしたのか、どうしてそんなことを知ったのかを不思議に思いながら、自分に言い聞かせていたことを覚えている。いや、覚えているというよりもむしろ、「祈り」というものを初めて知ったとき、そのことだと思った記憶がある。ちなみに、一つずつというけど、その一つの遊びってどういうことなのか、どんな遊びを分けても集めても一つができるし一つでできるじゃないか、どうしてなのか。どういうことなのか。一つって何のことなのか。など不思議に思ったのもこのことと同じだったかもしれない。

7 共振、幸福、一挙に与えられる答え
 6章は他の章に比べると込み入っている。けれどもこの章を独立に読んでも、丁寧に読めば論旨はくっきりと見えてくるだろう。「共振」ということで何を著者が言いたいのかを中心に理解していけばよい、と私は思うから。
 私が注目する点は、共振が問いと答えに即して次のように言われるときである。そしてそれは、慎重な著者が、幸福とは何か、という究極の問いに対して一言で答えを述べるときでもある。

p248
そのうえであえてひとことで述べれば、幸福とは、先の立体構造における多数の「共振」の集合です。快楽だけでも、欲求充足だけでも、そして客観的な人生の良さだけでも、幸福を得ることはできません。ある一つの行為選択が、立体構造における複数の問いに同時に答えること。つまり、一階における「何」の問いから、二階、三階での「なぜ」の問いまでが、共振のもとで一挙に答えられること。幸福の基礎にはこれがあり、もし、それを積み重ねていけたなら、「幸福な人生」と呼んで差し支えないでしょう。しかし、この答えに言いようのない欠落を感じる人がいるとすれば、その人は今まさに、何か恋愛のようなものを前にして、共振を放棄しつつあるところかもしれません。

ここに私が読み取りたいことは、「何」をすればよいのか、「何故」そんなことしたいのか、という絡み合った諸々の問いに対し、ある選択が一挙にそれらの問いに対する答えとなるときのことである。著者はそのことがしばしば生じ、しかも、あまりに身近なために意識すらされないp238という。だからこそ、「これを積み重ねていけたなら、「幸福」と呼んで差し支えない」と言っている。そして、この答えに言いようのない欠落を感じる人だけが、「幸福」を元手に賭けるべき「遊戯」(p260-265)があることをほのめかしている。

8 『時間と自由意志』の補遺として
7章にはこうある。「筆者からの願いとしては、本章を他章より先に読むことはぜひ避けて頂きたい。そうした読み方は、他章の理解を頭でっかちに歪めてしまうだろう」。それならばこそ私はここで何もいうべきではないと思うのであるが、『時間と自由意志』のある読者からの他の読者に対するアドバイスとしては、本章だけでも先に読んでおけば、先の書に対するかなり理解の助けになるところがある、と言えると思った。つまり、先の書の読者として私は、本書および本章に書かれていることを知って、かなり理解が深まるのではないかと感じた。例えば次の箇所。

p254
反事実的な諸可能性や未来の諸可能性がもしなかったらーーー。あるいは在ってもそれらを選ぶ主体が存在しなかったらーーー。ここに生じる〈慄然の感覚〉と一定の折り合いをつけることが、前掲の拙著と並行して本書を書いた私的な理由だ。現にこの世界しか存在せず、それ以外の諸可能性などないなら、この現実を他の諸可能性と比べて幸不幸を見出すのは奇妙である。そして諸可能性の「選択」について、満足、後悔、感謝、憎悪などの心情をもつのもおかしなことだ。しかしわれわれは実際にそのようなことをする生物なのであり、それが錯覚によるものであれ、この錯覚は強い客観性をもつ。

9 異様な幸福論か?
 すすめられたときには、本書は「異様な幸福論」ということであった。しかし、私にとっては、多くの部分で慣れ親しんだ考え方に出くわしたので、全然異様ではなかった。むしろ至極真っ当な幸福論だというのが私の率直な感想なのであるが、それはむしろ私が異常だからなのか?

10 なぜ、諸々の問いに一挙に答えられる、ことがあるのか。
 やっぱり最後に振り返って一つ問うておきたいことがある。それは、「なぜ」と「なに」の立体構造が、そもそもあるのはなぜか、ということである。私が問いたいのはそれがどんな構造をしているのか、というのではなくて、どうしてそんなことがあるのか、である。「立体構造における各階の行き来ーー各階における問いの連鎖ーー」(p236)と言われていることでいえば、問いの連鎖がなぜ起こるのか、ということである。「そしてその行き来の過程は、私たちが日々の選択のなかで、快楽、欲求充足、客観的な人生のよさを共振させようとする過程に重なるもの」とあるが、どうしてこのような過程があるのか、ということである。そして、p248の引用で言えば、「ある一つの行為選択が、立体構造における複数の問いに同時に答えること。つまり、一階における「何」の問いから、二階、三階での「なぜ」の問いまでが、共振のもとで一挙に答えられること」があるのはどうしてなのか、ということである。
 私が言いたいことは次のようなことではない。つまり、共振のもとで一挙に答えられることなどありえないではないか、どうしてそんなことが起こるというのか、と。そうではなくてむしろ、共振のもとで一挙に答えられるためには、複数の問いが持続していなければならず、複数の問いが、問いのままで維持されていなければならない。というのも、あっちこっちで行き当たりばったりに複数の問いがあるときには、一挙に答えとなるようなものは決して存在しないであろうから。一挙に答えとなるためには、「なに」であれ「なぜ」であれ、ずっとそれを問いとして持っていなければならないだろう。そして、その問いがあるからこそ、ある選択行為が、それらの問いに一挙に答えることになるのである。その答えが与えられてこそ、諸々の問いはある一つの問いに収斂されることになるのかもしれない。そしてそのときその問いの意味が、ようやく明らかになるかもしれない。しかし、どうしてそのような問いの連鎖があるのか。なぜ問いはそんなものであるのか。問いはそもそもそういうものであるが、それが本当に不思議だと私は思うのだ。

 私は、ここまで考えて、問いのあることこそが祝福と言われてもいいのではないか、とふと思った。なぜそう思えるのか。なぜそう思うのか。問いは尽きない。

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