子供の哲学理論研究について

参加したワークショップについての感想など。参考資料。http://philosophicalpractice.jp/wp-content/uploads/2016/07/WS%EF%BC%91.pdf


<注意> かなり意図的に限定した視点から限定した事柄のみを書きましたので、恣意的である可能性がもちろんあることを認めた上で、以下をお読みください。事実誤認などありましたら訂正いたしますので、ツイッターなどでご連絡ください。https://twitter.com/tritosanthropos

<目次>

1. 進行について
2. 三人の専門家だけによる対話の方が理論的研究の目的に適っていた?
3. 三つの提題は対話のルールに関するものでありえた
3.1 教育的観点に偏った理論的研究であったこと
3.2 土屋氏の提題へのコメント
3.3 中川氏の提題へのコメント
3.4 小川氏の提題へのコメント
4. 批判的主張
4.1 消極的考察が欠けていること(分析論と弁証論)
4.2 積極的な問いは消極的な問いを隠したり忘れさせたりする
4.3 ディアレクティケーとイロニー


1. 進行について

3人の提題者がそれぞれ15分程度で子供の哲学についての文献を調査した上での報告が行われた。正直なところ、挙げられていた文献に興味を持つ人ほとんどかあるいは全くいないし、調査された文献に権威があるということがどういうことなのかを理解していない参加者(私はそのうちの一人である)がほとんどであったように思われる。その後の流れから言って。

再び正直なところ、報告が終わってからの円になって対話するということが、子供の哲学の理論研究を深めることに対しては何らかの寄与をしたかというと疑問である。とはいえしかし、それよりもむしろ、円になって対話するという形式を実現することも重要だとワークショップの主催者が明確にその目的を打ち出したのであるから、それが実行されたということに意味があるのかもしれない。

2. 三人の専門家だけによる対話の方が理論的研究の目的に適っていたのでは?

3人の提題者たちは、参加者に比べて経験に裏打ちされた理論研究を圧倒的に長い間、そして哲学の技術を用いて行ってきたわけであるから、その事柄について探求することを、手を緩めずに行ってもよかったのではないかと思う。誰もそんな普通のことを言わないからあえて私が言うのだが、もっと本物の哲学者が知的に探求する姿が、まだ哲学をあまり知らない参加者に提示されるということも大事であったように思う。なるほど発言が許され、なんでも自由に話すことができるという対話に「発言する」参加者として参加するということは望ましいことであるが、ときに知識も足りず、技術も足りず、到底発言など許されそうもない危険な真理の探求を黙って外から聞くだけであるような経験することも重要である。私はこんな経験をどれほどしてきただろう。そして、その度ごとにどれほど哲学の魔力に抵抗できなくなってしまっただろう。とにかく、「ひたすら聞く」参加者として対話に参加することも十分哲学的であると言ってよいのは自明であると私には思われる。事情をよく見てみると、本当は、多くの人が、こうならざるをえなくなっている。というのも人数や時間がすべての人の発言を許しきれてはいないのであって、これは紛れも無い事実なのである。対話が時間と空間とにおいて有限である以上、このような制約を有限な存在者である我々ももちろん逃れることはできないのである。何れにしても、論じられているその事柄について真剣に思索してきたものだけが楽しめる遊びを目の当たりにするのも、「哲学」対話への参加の一つの、しかも重要で無視することのできないあり方ではなかろうか。むしろこのような参加のあり方が強調されたっていいのではないか。

3. 三つの提題は対話のルールに関するものでありえた

ここまでは前置きのつもりで書いたが、もはや書き過ぎてしまった。ということで、3人の提題者に言われたことと配布された資料のごく一部を参考にしながら、共通性と差異性とを単純化してみたいと思う。対話というのはあまりに多くのことが起こりすぎるものなのであって、反省的になるときには、多くのことを打ち捨てることの方が重要なのである。

土屋氏(提題T): 哲学対話においてルールを疑うことをも教え込むということになるとしたら、それはパラドクシカルである。

中川氏(提題N): 探求のコミュニティにおいて用いられた推論や規則といったルールは生活の中でのルールとしても働きうる。

小川氏(提題O): 子供の哲学の哲学性は、対話のどのようなルール(例えば共通了解を志向すること、思考の遊び場、哲学的態度の権威)に見いだすことができるのか。

以上のようなまとめは、3人のそれぞれにとっては全く不十分であるだろうから、その点は、それぞれの人が何か言ってくれることを待つことにしよう。以上のようにまとめたのは、もしも3人が何か共通の論点について語っていた、あるいは語ることが可能であったとするならば、それは「対話のルール」ということになる、と私には思われたからである。もちろん、これは私自身が考察したい問題に引きつけたものであって、私の明確な意図のもとでのものである。その意図が、以下に示されるであろう。

3.1 教育的観点に偏った理論的研究であったこと

さて、3人が子供の哲学の理論研究ということで論じたことで偏りがあると思われるのは、いずれもやはり教育的な観点が濃厚であるということである。子どもの哲学の理論的研究が、教育的な観点に限定される理由はもちろん全然ないが、おそらくは、そのことに関して3人はあまり自覚的でなかったように思われる。教育現場での実践者であるから致し方ないことではあるとはいえ、理論研究という限りは端的に理論研究であることが視野に入れられてもよかったはずなのである。限られた時間でバラバラなことが言われたにもかかわらず、もっぱら3人の教育的関心や経験に基づく理論研究であったことは、哲学プラクティス連絡会全体の経験的、教育的な視点への偏りを映し出すものとも私には思われて仕方がない。

3.2 Tについてのコメント

Tの提題は、対話を教師が子どもたちに教えるという教育的な視点から提示されたものであった。すなわちすでに対話というものの何であるかを知っているとされているもの(教師)が、まだ対話とは何かを知らないもの(子供)に、対話とは何かのルールを教える、という状況設定である。しかしここで、対話のルールは、対話とはそもそも何かと疑うことをも含む。そうすると、如何にしてそもそも対話のルールを教えうるか、という問いが立てられる。哲学対話が教え込みであるかどうかの問いが立てられるとは、このような事情であると、私は理解する。(このような理解に私が至ったのはS氏の解釈を聞いたことにもよっている)

以上のようなものは、教育的な視点から提示されたものであるのだが、同じ問題が、別の状況設定では起こりうるのかどうかが考察されてもよい。すなわち、そもそも教師が子どもに教えるという状況設定ではなく、子供達自身が互いに自発的に教えあうというような状況である。全く教師の介入なしに哲学対話が子どもたちのうちでなされるときには、「教え込み」という問題(やあるいはそれに類する問題)は起こるのか、起こらないのか、ということである。細かく論じていくとあまりに分量が多くなるので省略するが、同じ問題は、教師と子供の状況設定にかかわらず、対話と言われる限りの全てにある、というのが私が幾度か考察した結果たどり着いた暫定的な結論である。一言でいえば、対話を教えるにせよ、対話を学ぶにせよ、対話を評価するにせよ、対話を記述するにせよ、それが対話であると言えるような本質がある(それが対話実践表の12の形式のことである)から、対話についての問いが、対話において成立するのである。

3.3 Nについてのコメント

Nで言われていたことは次のようなことであったと思う。探求の始まりは疑いであり、探求の途中では推論などが手段として用いられる。そこで用いられる推論や論理は、単にその場でだけ用いられるようなものではなく、実際の生活にも用いられて習慣を形成するようなものであり、また実際の経験に基づく信念などでもある。それゆえにまた、教室内の探求で終わりなのではなく、教室の外での行動においても探求は際限なく続く。私の理解の範囲内で言われたことをより強調すれば、対話の内部の論理やルールが、対話の外部(例えば実際の行動)に適用されたり、あるいは外部を映し出したりするということにこそ、探求のコミュニティの意味がある、というふうになる。逆に言えば、対話が内部にとどまり外部とのつながりをもたなくなってしまうと、探求のコミュニティの意味はあまりなくなってしまう、ということが言われていたのであろうか?この問いは取り上げられなかったが、探求が対話の外部でも際限なく続くということを強くとれば、探求のコミュニティの意味は外部との繋がりを絶たれることによって消えてしまうか少なくなってしまう、という回答になるであろう。もしもそうであるとしたら、探求のコミュニティが形成されるときにだけ許されるような態度や言説はどうなってしまうのであろうか。探求のコミュニティを離れたところでは決して実践しないような論理的推論や思考実験や発言などは、それらが実生活での習慣を形成したり、信念を生み出したりはしないから、探求のコミュニティの意味には関わりがないものと扱われてしまうのであろうか。

3.4 Oについてのコメント

Oで提示されたのは、子供の哲学と言われるときの「哲学」という言葉には十分注意深くなければならないし、そのことを常に問わねばならない、ということであったと私には感じられた。子供の哲学が哲学でないという意見がはじめに紹介され、それらを一応踏まえた上で、主に二つのことが、子供の哲学が哲学といえる見解を支持するものとして提示された。一つは問いに答えを出すにせよ問いを深く考えるにせよ、共通了解が志向されていく、というもの。もう一つは、実践者の実感に即したものでもあるとのことで、感情と思考とが遊び・戯れ(play)を通じて秩序を保つようになるというものである。これらのことから、子供の哲学の目的の如何によってそれが哲学と言いうるかどうかが考えられるべきであり、また、思考とともに感覚や感情を積極的に評価することが哲学性を明らかにするのではないか、という方向で考えていくとの報告がなされた。私の考えでは、子供の哲学の目的が教師や大人によって設定されたり、あるいはその目的がそれらの人々によって解釈されたりするときにも、哲学性は失われる。それは子供の哲学だけに限ったことではないであろうことも自明であるように思われる。ところで、哲学の無目的性あるいは自己目的性こそは、実は哲学的対話と遊戯との深い関係を示すのではなかろうかと思い、対話におけるルールの従われ方とスポーツにおけるそれとを類比するように試みたことがある。何れにしても、哲学の無目的性や自己目的性は子供の遊戯に見られる特徴であり、教育/政治的配慮が働く中での哲学は合目的性が求められている、ということを指摘しうると思われる。そしてこれらの違いは強調されてもよいと私は考える。

4. 批判的主張

三つの提題を素材に考察した結果として、私は、次のような批判的な主張をしてみたいと思う。

4.1 消極的考察が欠けていること(分析論と弁証論)
子供の哲学であれ、哲学対話であれ、対話であれ、それの「何であるか」という積極的な考察と同時にまた、それの何でないかという消極的な考察をしなければいけないということが全然考慮されていない、ということである。このことは、哲学プラクティス全体に当てはまることであると私は強く感じた。哲学対話が哲学であるのは何故か、と積極的な問いしか立てられず、哲学対話が哲学でないのは何故か、という問いは立てられていない。むしろその問いが隠されたり忘れられたりしているのではないかと思われるのである。子供の(ための)哲学が哲学ではないことが自明な前提とされるならば、それと同じような種類のものは全て哲学でないとも言える。そうすると、子供の(ための)哲学を批判していた哲学の側にもしも子供の(ための)哲学との共通点が示されるようなことがあったならば、そもそもそれらも実は哲学ではなかったということにもなる。例えば子供の哲学を批判する人たちが、子供の哲学は単なる子供達の思いつきのおしゃべりにすぎないと批判するのならば、その批判はそのまま、学者たちが好き勝手に知識を引っ張りだして侃侃諤諤の議論をすることにも当てはまるのは自明であろう。

4.2 積極的な問いは消極的な問いを隠したり忘れさせたりする。
哲学対話が「どうして哲学なのか」と問うことが、「どうして哲学でないのか」と問うことを隠したり忘れさせたりすることと同じように今度は、哲学対話が「どうして対話なのか」と問うことや、哲学対話が「どうして対話でないのか」という問いも隠してしまったり、忘れさせたりしてしまうのではないか。私は、私と対話する人々にだけはそうであって欲しくないと思い、何が対話であり何が対話でないのかを論じて答えも明らかにしたつもりである。私がそのときできたことは、その程度のことでしかなかったが、幾人かの人にはどれだけか理解され、またある人々にはかなりの程度誤解された。このことが露わになったということが、私にとっては大きな収穫であった。

4.3 ディアレクティケーとイロニー
ところで、このように「何であるか」と同時に「何でないか」をもいつでも考察することのできるようになること、すなわち「そうであるか、どうか」との問いを提出するようになるという訓練が、アカデメイアの設立当初あたりにディアレクティケーと名付けられたと伝えられている。さて、そのディアレクティケーとはどのようなものであったのか、いや、どのようなものではなかったのか、そのことを問わずにいるというのは、一体どんなイロニーであり、どんなイロニーではないのであろうか。

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