哲学のない時代の哲学はどうなのか?哲学を必要とする時代の哲学はもっとどうなのか?

哲学のない時代の哲学はどうなのか?哲学を必要とする時代の哲学はもっとどうなのか?

http://bunshun.jp/articles/-/3228

はじめに自己批判の欠如している読者に対する警告

はじめに言っておかねばならないのは、インタビューされた哲学者についてああだこうだと私がケチをつけているなどとは決して誤解しないように、ということである。そうではなくて、聞きたいことしか聞こうとしない大衆の愚かな耳に念仏を唱えてやろうと思ったというだけのことである。だから以下のことを読もうと試みる奇特な方は、批判されているのが自分であるということに気づく、もっと奇特な能力を持っていなければならない。今、「そんなことが私にはできるのか?」と5秒くらい自問してほしい。そして、その能力をもっていることに少しでも疑念があると思ったならば、これ以上の時間の無駄であるから読むのはやめたほうがよい。

1 問題の問題(「問題」問題)


引用1
「人間とは何か」とか「時間とは何か」とか、哲学は漠然とそんなことを考えているんじゃないんです。哲学は常に問題を考えているんです。突きつけられた問題に応答しようとしている。
引用2
デカルトは問題に答えたのです。だから哲学というのは問題に対する応答であり、その副産物として、時折、真理が発見されると考えれば良いと思います。大切なのは真理じゃなくて問題なんですね。
引用3
僕が哲学を教える時には、1人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したかを体感してもらおうと思って授業したり本を書いたりしています。そうすると、突然、哲学が生き生きと具体的に見えてくる。
引用4
3つあげられます。1つは立憲主義の問題、国家の問題です。
2つ目は権利の問題、社会の問題です。
そして3つ目は主権の問題です。

「問題」という言葉はこれほど多くの意味でこうも安易に用いられるのはなぜであるか、すべての哲学者が反省すべきであろうと、私は思う。いいかげん、我々は問題を問題にすべきではないだろうか?(そういえば、関係ないわけではないが、Mさんは『「問題」問題』と言っていた。) 「問題」にも「問題」があるということを忘れてしまったら哲学なんてどうしてできるだろうか? 「問題」にある問題をいとも簡単に乗り越えるのが哲学者なのであろうか?こうしたことを私が言う背景は、 「一人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したか」ということをあまりにたくさん、それも愚直に、聞きすぎた、ということがある。(この種の言説を聞き足りていない人は私の眼中にはない。)哲学者の固有の「問題」とか、その時代の「問題」とか、こうした諸々の「問題」、ということがまさに問題ではないか、とこれまで思わなかったことの方があまりに不思議になってきた、ということである。 しかし、私が問題のことを問題にしていると言ってもどうも全然ほとんど誰にも通じていないようである。これが通じない人たちはやっぱり問題の問題を易々と乗り越えて知ったつもりになっているのではないか?と疑わざるをえない。古代の哲学が無知を問題とするのはまさにこのことなのではなかろうか?と自問せざるをえない。


2 パレーシアに関する明白な誤解


引用5
誰もしていなくても、おかしいと思ったら、おかしいと言う。間違っていることを目にしたら、間違っていると声を上げる。それが勇気です。古代ギリシアには「パレーシア」という言葉がありました。これは思っていることを素直に口にするという意味なんですが、今はパレーシアが本当に行われなくなっている。義の心と言ってもいいのですが、勇気を伴う実践の必要性を訴えたいと思っています。

フーコー(は「問題」の、歴史における構成を問題にした人としてあまりに有名であろう)の著作を読んだことのある人ならば、今はパレーシアが行われ過ぎている、とも言いたくなるはずだろう。例えば『真理とディスクール 〜パレーシア講義〜』の冒頭近く(p12)では二種類のパレーシアがあったことが紹介され、貶めた意味でも使われることがあると指摘されているからである。思ったことを何でも口にするという「お喋り」にちかいニュアンスをもつこともあったと言われているのである。そして、『真理の勇気』p14でも次のようにはっきり言われている。

ミシェル・フーコー『真理の勇気』 慎改康之訳 筑摩書房p14
しかし、ただちにはっきりさせておかねばならないのは、このパレーシアという語が、二つの意味で用いられうるということです。私が思うに、アリストパネスにおいて初めてこの語の悪い意味が見いだされ、次いでそれがキリスト教の文献に至るまで非常に一般的に見られるようになります。悪い意味で用いられるとき、パレーシアは、確かにすべてを語ることではあるけれど、ただし好き勝手なことを何でも語ること(頭に浮かんだこと、自分が弁護したい主張にとって有用でありうること、語る者を突き動かす情念ないし利害に役立ちうること、を好き勝手に何でも語ること)を意味します。パレーシアステースはそのとき、おしゃべりをやめない者、つまり、自制することのできない者、あるいはいずれにせよ自らの弁論を合理性の原則や真理の原則に準拠させることのできない者となり、そのような者として現れます。

今の時代だけでなく永遠に必要であろう徳だとか勇気だとかを、時代や民衆の必要に応じて切り売りできる時代がきたとは哲学にとってなんと幸福な時代であろうか?

哲学のない時代の「哲学」は不幸だろうか?むしろ幸福なのではあるまいか?哲学を必要とする時代の「哲学」はもっと不幸だろうか?もっともっと幸福ではなのではあるまいか?

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