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【完全版】月の男 第10話

 会場に着くと、出場選手や各校の応援の選手たちが、すでに集まり始めていた。私はひとまず売店で水を買い、ごくごくと飲み干して息を整える。朝食も何も食べていないが、そんなこと言ってはいられない。
 あいつが、この会場のどこかにいるはずだ。脅迫状を書いた『月の男』を名乗る者が。
「つばめ様⁉」
 素っ頓狂な声がし、何者かがこちらへ駆け寄ってくる。一瞬身構えたが、よく見ると、父親から警備員として雇われている大治郎だった。彼は桂野学園や自宅の屋敷など、その日ごとに指示された配属先で、警備の仕事を行っている。今日は青龍館の警備に駆り出されたようだった。
「つばめ様、どうしてここに? 旦那様は、あなたをここには来させないと…。」
 大治郎が私に近寄り、小声でささやいた。彼も脅迫事件のことをあらかじめ聞いたうえで、警備にあたっているのだろう。
「大治郎、あなた、もしかして爆発物を探しているの?」
 私も同じく小声で問いかける。
「ええ、ご推察の通りです。ええ。もちろん、脅迫状が届いていることは極秘中の極秘ですが…。念のため何か不審物が見つからないか、桂野家専属の警備員総出で捜索しています。それに、ええ、気になることもございましたので。」
「気になること?」
 小声で話しながら私と大治郎は、人目につきにくい場所へと移動した。
「ええ。夜の間に何者かが、ここに侵入しようとした形跡が残っていたそうです。ええ。他の警備の者が発見したのです。」
 ええ、ええ、とやたら繰り返すのが、大治郎の話し方の特徴だった。
「ええ、もちろん、脅迫事件との関連性はわかりませんが、ええ、脅迫状の人物と、同一だった可能性が高い。気になることと言えば、つばめ様。私はつばめ様に会ったらぜひお尋ねしようと思っていたことがあるのです。」
 大治郎は岩のような手で、ズボンのポケットから、ガサガサ、と紙を取り出した。
こうしている間にも、会場の入口の方に目を向ければ、女生徒たちが会場に次々と到着しているのが目に入る。
「この紙をご覧ください。」
「これは……?」

 塩酸 一瓶。
 硫化水素 一瓶。
 ナトリウム 一瓶。

 大治郎から差し出された紙には、理科の実験で使用する薬品の名前が列挙されていた。
「これらの薬品は、ええ、ここひと月ほどの間に、理科室から消えた薬品です。つい先日、教員が、ええ、この事実に気づきました。」
理科室…。私はおぼろげな記憶をたどる。そういえば、篤子が、理科室にまつわる噂話をしていなかったっけ。
「このうち、先日の理事長室で起きた火事の後に、ええ、この火事の時、私もちょうど桂野学園の警備にあたっていたのですが、ええ、それは置いておいて、この火事の後に、理事長室から、燃え残った硫化水素の瓶が見つかったそうです。」
「あの爆発事件の後に…?」
 またも嫌な予感がじわじわと、私の頭の中で広がっていく。
「ええ。なんせ硫化水素です。ご存じのように、ええ、これは有毒な薬品です。下手をすると、火事よりひどいことになっていた。問題はこの薬品が、どこから持ち込まれたかです。つばめ様、なにか御存じないですか。」
 今朝から、いや、『月の男』と前回会話したときから抱いていた懸念が、だんだん自分の中で確信に変わっていくのがわかる。できれば気のせいだと思ってやりすごしたかった、ある懸念が。
「徹夫は……。」
 口にするのがつらい。信じたくない。
「徹夫は……、あの火事の後、カバンを持ってた……?」
 私はおぼろげな記憶の糸をたどる。
一緒に叱られているとき、徹夫はたしか、カバンは持っていなかった。
そういえばあのとき、徹夫がカバンを開けた時の、あの腐ったような強烈な臭い。理科の時間に習ったけれど、硫化水素に含まれる硫黄は、あんな臭いがするんじゃなかったっけ。
 そして、私はあの時、『月の男』が現れる直前に、たしかに見ていた。
 徹夫のカバンの中から、何か機械のような、コードのついた黒い物体が、ちらりと覗いているところを――。
 自分の中で急速に、白いピースに色と模様がついていく。徹夫がそんな大胆なことを? ありえない。いや、でも、徹夫は以前から、何か大きな企みを胸に秘めているかのような発言をしていたじゃないか。
 理科室で聞こえると噂になっていた物音は、おそらく標本の骸骨なんかじゃない。徹夫だったのだ。おそらく、徹夫は、人知れず危険な薬品や火薬を集めていたのだ。きっと、何か大きなことを、何かおぞましいことを起こすために――。
 いや、これはただの推測にすぎない。そう思い直そうとしたときに、

――あの力がさらに爆発したら、いったいどうなるのかねぇ。

 急に、脳裏を『月の男』の言葉がよぎった。徹夫は、これまでからかわれたり、いじめられたりしてきた中で、抱えに抱えた鬱憤を、このような形で晴らそうとしているのか。
 すべての推測が急に現実味を帯びて、起こりうる未来として目の前にずしりと姿を現す。
「大治郎、徹夫を探して! 徹夫を!」
 私はそう言い残すと、自分も徹夫を探すために観客席へと向かった。

 一通り観客席を見回したが、徹夫の姿はまだどこにも見当たらなかった。まだ会場には来ていないんだろうか。それとも、観客席以外のどこかに潜んでいるのだろうか。
「お、つばめじゃん! おっはよー!」
 その声にはっと振り向くと、篤子とユキが手を振っていた。何も知らない二人は笑顔で、これから行われる試合が楽しみで仕方ないという様子をしている。会場の中央に、いつか自宅の屋敷で見かけた、トロフィーと呼ばれる青銅の器が運び込まれているのが見えた。
「…あれ? つばめちゃん、どうしたの…? そんな怖い顔して…。」
 私はよっぽど思いつめた表情をしていたのだろう。ユキが少したじろいだ。
「篤子! ユキ! 徹夫、徹夫を見なかった?」
 私は二人に問いかけた。己がせっぱつまっているのが、自分でもわかる。
「徹夫くん? さあ、見なかったけど…。」
 ユキも篤子も、そんな私の様子を見て、どうしたらいいかわからないという風に、互いに顔を見合わせた。どうする。脅迫事件のことは言えない。でも、言わないと、全てがうまく説明できない。
「……ユキ、篤子、ちょっとこっちに来て。」
 私は二人の袖を引っ張りながら観客席から出て、最寄りの控室へと二人を連れて行った。ドアをノックして、中を確認する。幸い、この部屋には誰もいなかった。二人を部屋に押し込み、私も続けて扉の中に入る。
 私は、すべてを打ち明けるという選択をした。
 信じてもらえなくても、笑われてもいい。とにかく打ち明けないと始まらない。私は二人にすべてを託すことにした。
「篤子、ユキ、落ち着いて聞いて。今朝、うちに、お父さんあてに、脅迫状が届いたの。」
 私はできるだけ心を落ち着けて、ゆっくりと話し始める。
「本当に落ち着いて聞いてね……。その脅迫状、この会場に爆弾をしかけたっていう内容だったの。死人が出るとも書かれていたわ。いま、うちの警備隊が、総出で爆発物がないか探してる。」
「うそ……!」
 ユキの顔がみるみる青ざめていく。篤子は黙って、肘でユキの二の腕辺りをつついた。静かに落ち着いて聞け、という合図だった。篤子がごくりとつばを飲み込み、喉を鳴らすのが聞こえた。
「それで、私、確信はないけど、その脅迫犯は徹夫じゃないかと思っているの。うまく説明できないけれど、徹夫だとしたらいろいろとつじつまが合うのよ。」
「……!」
 篤子とユキが目を見開く。
「だから、お願い。一緒に徹夫を探して。二人にも協力してほしいの。一刻も早く見つけないと、あいつ、恐ろしいことを始めるかもしれない。お願い! 力を貸して!」
私は両手を強く合わせ、二人に拝むような格好になった。けれども、両目は開いて、上目がちに二人の表情をうかがっていた。篤子とユキは、突然のことに頭がついていかないという様子だったが、やがて篤子がもう一度つばを飲み込み、口を開いた。
「とにかく、探せばいいんだな、徹夫を。」
 篤子はじっと私の目を見つめる。私は強くうなずいた。
「わかった。ユキ、手分けしようぜ。ユキは観客席に戻って見張れ。アタシとつばめで会場の残りの場所を、半分ずつ探す。アタシは東側。つばめは西側。いいか?」
 篤子が早口で指示を出した。こういう時、一番頼りになるのはやはり篤子だ。
「篤子、私の話、信じてくれるの……?」
 私は少し気弱になって篤子に尋ねる。
「あー、そりゃ、徹夫が本当に犯人かどうか、アタシには判断できねーけどさあ。」
 篤子は頭をバリバリとかきながら答える。
「でも、どっちにしろ徹夫をつかまえりゃ白黒つくじゃん。それに、つばめがこんなに真剣に言ってるんだし。」
「篤子……。」
私は驚きと感謝の眼差しで篤子を見つめる。篤子は照れくさいのか、さらにバリバリと頭をかいた。
「篤子、ありがとう…。」
「あーもう、いいっていいって。早く探そうぜ。」
 そう言って控室から出ていこうとした篤子を、ユキが「待って」と呼び止めた。
「ねえ、それ、差出人は書いてなかったの? ほら、よくあるじゃない、カイジンニジュウメンソウとか、そういうの…。」
 ユキがどこか困惑した表情で尋ねる。おそらくユキは、徹夫が犯人である可能性があるなんて信じられないし、信じたくもないのだろう。
「書いて、あったよ……。」
 一瞬の間の後、私は遠慮がちに答える。
「『月の男』、って…。」
 かすれそうなその言葉を、私は喉から絞り出した。もう一度、この男の名前を口に出すのは恥ずかしかった。けれども私は、すべてこの二人に正直に伝えると決めていた。
「つきのおとこ、か……。」
 篤子がつぶやいた。私は心臓がきゅうっと握られるような感覚に襲われる。
 言ってしまった。でも、もう後戻りはできない。
「えっと、そいつ、どんな外見してたんだっけ? 黒い服と、あとそれから?」
 え、と思って篤子の方に顔を向ける。篤子は真剣な眼差しで、はやく、と答えを急かした。私は一瞬あっけにとられたが、慌てて答えた。
「そ、そうよ、黒い上着に、黒いスーツ。髪も帽子も黒で、目は赤い。あ、あと帽子のリボンも赤いの…。」
「なるほど、了解。そいつも一緒に探すぞ。行こうぜ!」
 篤子が部屋を飛び出した。それにユキも続く。私の心はドキドキと高鳴っていた。まさか、篤子があんな風に尋ねてくれるなんて。完全に予想外だった。
 私が、真剣だったから…?
 先ほどの篤子の言葉を、宝箱から取り出した宝石を様々な角度から眺めるときのように、大事に大事に、繰り返し心の中で反芻する。
 初めて『月の男』の話をしたとき、私がもっと真剣に事実だと主張していたら、いったいどうなっていたのだろう。案外あっさりと信じてもらえたのかもしれない。
こちらが真剣に向き合えば、相手にも何かが伝わるんだ。きっと、そうだ。
私は拳をきゅ、と握りしめ、控室を飛び出した。

会場の西半分を一通りうろついてみたが、徹夫の姿はどこにも見当たらない。少し長い階段を上ったり下りたりしながら、主に観客席のある二階部分と、主に控室や事務室、そして試合場への入口がある一階部分とをくまなく捜し歩く。そろそろトロフィーを前にして、選手たちが開会式を始める時間だ。
いったん観客席に戻ってユキと情報交換しようか、と思い始めたそのときだった。

ズキン…!

またあの頭痛が、私を襲う。
 やっと来たのね、と私は心を引き締めた。
私はもう、うろたえることはなかった。深呼吸して頭の痛みを受け流しながら、額縁から徐々に姿を現す『月の男』を静かに待ち構える。
「ふうん、今日はなんだかいい顔してるじゃねえか。」
 完全に姿を現した『月の男』は相変わらず、軽い口調で言った。
「ねえ、あんたも協力してよ。私、いま徹夫を探してるの。」
 私は誰かに聞かれないように、声を潜めて男に話した。
「ははは、俺を利用しようって魂胆か。ずうずうしい奴め。」
 『月の男』は愉快そうにケタケタと笑う。この非常事態にも、笑っているなんて。
「笑わないで協力してちょうだい。私はまだ、あんたが本当は脅迫犯だって可能性も捨ててないんだから。」
私はむっとした表情を作って言ったが、内心そこまでは怒っていなかった。むしろ、普段と変わらない『月の男』の飄々とした態度に、どこか安心感を覚えていた。
笑う、か。私はこれまで、この男と対峙してきた日々を思い返した。映画のフィルムを早送りするかのように、『月の男』のあの姿が、あの言動が、次々と脳裏に浮かんでは消える。この男は、いつでも飄々と笑っていた。そう、笑っていたのだ。私は初めて『月の男』と出会ったとき、彼の不敵な笑みを不気味に思った。そのつかみどころのなさに、戸惑いを覚えた。しかし、『月の男』はいつでも笑っていた。怒っていたり、泣いていたりするよりは、よっぽど親しみやすかったじゃないか。
彼の存在や不可解な言動は、私にはただただ恐ろしかった。けれど、今思うとそこに、敵意や悪意はなかったように思える。
「お願い。一緒に徹夫を探して。」
 私は『月の男』の赤い目を真っ直ぐに見た。この男は確かに、敵に回せばやっかいな存在だろう。けれども、こちらが考え方を変えて、味方にしてみればどうだろう。無敵の協力者にならないだろうか。
「ふうむ、まぁいいだろう、力を貸してやる。」
 そう言うと、『月の男』はニッと笑った。その気取った笑い方には、どこか清々しささえ感じる。
 と、次の瞬間、男はふわりと浮かび上がり、同時に体を水平に倒す。
 まるで、彼にとっては壁が床で、床が壁であるかのように、『月の男』は地面と体を水平にし、壁に足をつけて、直角に立つ。重力さえも自在のようだ。
「ちょっと探してくるか。」
 『月の男』はそう言うと、少し足を曲げて体をかがめたかと思えば、
 ダンッ!
 両足を思いきり伸ばして壁を蹴り、
 ビュワッ!
 その人間離れした跳躍力を使う形で、猛スピードで向かいの壁に向かって、弾丸のごとく水平に飛んで行った。ぶつかる、と思うやいなや、男の身体はするりと壁を通り抜けて消えてしまう。
 あぁ、彼は本当に「闇」なのだ。私は妙に納得した。彼には実体がないに等しいのだ。だから、壁だって自由にすり抜けられる。
 そんなことを考えていると、男がぬっと反対側の壁から顔を出し、また体の向きを床と垂直に戻して、ふわり、と浮きなおした。どうやらこの短い時間に、青龍館の中をぐるっと一周飛んできたらしい。
「ふうむ、なかなか広い会場だな。こりゃお前が見つけられないのも無理はないな、お嬢ちゃん。」
「徹夫は? いたの?」
 悠長にふわふわ漂う男に、私は必死の形相で尋ねる。
「ああ、いたさ。あいつが行きそうなところなんて限られてるだろ。たとえば、お前の知り合いの所とかな。」
「知り合い……!」
男は相変わらずはっきりと物を言ってくれない。しかし、私にはぴんときた。徹夫が行きそうなところが、一か所思い当たる。
「京子の控室!」
 私は一階の選手控室へと走り出した。『月の男』も私の後をすうっと追ってきた。


(第11話へつづく)