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鰯の頭も信心から、飾らないのも信心から|近畿地方のある場所について

 はじめに断っておくと、僕は無類にホラーが苦手である。
 中学の頃にフリーゲームの『猫鮪』をプレイしていたとき、心臓が早鳴りするのに体の末端はどんどん冷えていったのを覚えている。同じく中学の頃、元友人の姉がプレイしていた『かまいたちの夜』が恐ろしすぎて見れなかった。ネットフリックスで観た黒沢清『回路』の終盤、男の霊が迫ってくる場面では耐えきれずに目を瞑ってしまった。
 それくらいには、ホラーに対して免疫がない。

 まぁお察しのとおりに本書もホラーである。書簡体といえば良いのか、取材資料や2ちゃんねるのまとめ、SNSの投稿などから近畿地方のある地域にまつわる怪異に関して読み解いていく、そういった作品になっている。
 具体的な場所や個人名を伏せて超常的な現象を語らせつつ、個人名が名字だけでも出ているところにはカフェやオフィスといった身近な場所に舞台を置いて超常現象は起こさないという手法を取っている。ホラー小説や映画をよくご覧になる皆様にとっては普通だよと言われるかもしれないが、少なくとも僕にとってはこの方法はリアリティをぐっと高めるよい手法になった。
 集団ヒステリー事件があった場所だとか、幽霊マンションの所在地、よく出てくる近畿地方のダムを少なからず特定しようとネットで調べようと思わせるくらいには効果があった。結局、ダムなんてどこにでも自殺にまつわる怪談はあるものだし、ダムがあるならその建築資材を運ぶために山を貫くトンネルは整備される。近畿地方には南北に連なる連山は京都を囲んでずらっとあるわけで、古代日本でのアニミズム信仰により大体の山には信仰が備わっている。そういった事情により、特定することは諦めた。まぁストリートビューでも見れば何かしらわかったかもしれないが、そこまでやる度胸は無いことは上記したとおりである。

 では何故本書を読み終わることができたのかといえば、随所に見える小説的作為がその一助になっただろう。人物の言葉遣いが不自然に感じる、いうなれば、主人公が喋らない系スマホのストーリーとかで、主人公のセリフを他のキャラが代弁するような、あの違和感を所々に感じた。それが、この話は結局フィクションである、という安全装置として働いた部分もあるだろう。また、収録されている女性作家のインタビューで、お化けや怪異といったものは自身の認知によってその影響から逃れうる、という信念を話していた。それによってもこの作者の人間性があまりにも欠落していない限りは、我々読者の認知によって怪異から逃れうるだろうという安心材料になっていた可能性もある。まぁ、これが実話であろうがなかろうが、信仰が神や怪異を形作る、ということもあるわけだが。
 そういった意味では、本書が出版された時点で本書に記された怪異の目的は果たされているとも言える。あるいは、YouTubeには本書の朗読動画が多数投稿されているらしい。これは「そういうものがいるらしい」という認識を広めるにはうってつけの状況であり、ただの石や山が信仰対象になるアニミズムの伝播とほぼ一致する現象ではないだろうか。しばらくしたら、本書の内容を元にした怪奇現象が近畿地方の各所に現れる可能性もある。そういう意味では、近所のお地蔵様の前を通る際には必ず頭を下げる僕としては、やめてほしいなァと考えなくもない状況である。

 しかし、よく見る言説として「この話を知ったあなたにも影響が……みたいな怪談はおもんない」という物があるが、たしかにおもんない物がある。ホラーを楽しみたい人は、自身に影響が無いと確信しているからホラーを楽しんでいると言える。ちょうど芸能人のゴシップを見て楽しんで、ついでにその芸能人のファンの反応も見て楽しむようなものである。自身は実害を被らないと知っているからこそ、お化けや怪異といったものを楽しめている。中島哲也『来る』(2018)でも、そこに配慮して視聴者を現実に戻してくれる配慮があったからこそ、霊媒師アヴェンジャーズなどと楽しまれていた部分もあったろう。
 本書は、それがない。いや、してしまったら本末転倒というか、実在性を求めるための手法すべてが崩れてしまうだろう。しかし、ホラー苦手の民からしたらあとがきでもいいから「本作品はフィクションです」とでも書いてほしかった、というのが本音である。寄りかかるものが己の認知のみというのは、かなり頼りないものがある。
 それでも、お化けなんか無いさと信じ抜くことでしかこの呪いから抜け出せないと言うなら、僕はそうしよう。それがまた、信仰の一形態であるかもしれないが。


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