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遥かな『遥かなる星』にまつわるお話し

 佐藤大輔さんの幻になりかけていた著作、『遥かなる星』がハヤカワ文庫から復刊されると知って狂喜した。

 機会を逃して買いそびれたら絶版になってしまい、しかも絶版となり入手困難になってからそちら側への興味が増大して、長らく読めなかった小説である。
 中央公論新社から刊行された新書版はその当時存在を知らなかったため、古本屋を探し回って三巻だけ手に入れることはできた。しかし、シリーズ最終巻では読むには読めない。ときどきAmazonのマーケットプレイスに出現する一、二巻はプレミア価格——しかも思い切るには費用対効果が悪すぎるような値段——で取り引きされていたため、三巻を長らく死蔵していたので復刊の喜びはひとしおであった。

 そうした訳で、『遥かなる星』は、タイトルになぞらえるように、遥かな存在だったのである。

 先日、『遥かなる星 1 パックスアメリカーナ』を読了した。

 内容についてとは別に、ふと思ったことがある。
 もし、十代当時に少し無理をしてでもこの作品を読んでいたら、迷い無くいまの指向性を得ていただろうということだ。実際問題として、確たる物は何も無い現実なのだが、いくつかの面倒を回避できた可能性は十分にあるからだ。

 これは何も、お小遣いという名の十代特有の限られた資金源によるものではなく、当時個人的に入信していた「一人の作家に固執するのは読書経験上よろしくない」という宗教に起因することなので、いまになってぼやいている。個人的な信仰ほど厄介なものはない。と思い知ったときには、二十代になっていた。

 「偏り過ぎている」、「またぞろ何某の影響を受けて……」などと言う奴には言わせておけば良い。というより、前者はその言葉の後に何かを薦めて来ないなら、後者は商売が絡むような状況でもない限り、害悪でしかないと言っても過言ではない。と気づいたときには、三十代になっていた。

 剣呑な言葉を出しておきながら、例外を設けたのには理由がある。

 前者は当人の趣味嗜好という偏りを承知した上で、プラスアルファを提示しているのであり、要するに「もっと勉強しろ」と言っているわけである。視野を広げさせるのが目的なので、どちらにとってもプラスになる。発言者はこちらの事だけではなく、双方の今後の関係まで含めて考えて発言しているわけだ。無意識に実行する有難い天然さんもいるが。
 いずれにしても、人に物を薦めるという行為は、なかなかハードルが高く、責任を伴うので難しい。

 これを理解した上で薦めてきたのだから耳を貸す価値は十分にあるし、素直に従って損をしたことは、少なくとも私の経験上は一度もない。これを理解せずに薦めてくる相手はどうかと言えば、明らかに焦点がずれているため、発言もまた無責任である。有難い天然さんがなぜ有難いのかと言えば、責任など微塵も感じずしかし相手に合った物を薦めてくるからである。

 そういう人は、いる。

 後者については、特定の、あるいは様々なこともの(大抵は作品)に強い影響を受けることの意味と価値、そして影響を咀嚼する過程における思考の存在に考えが及んでいないという点で、相手をその実まったく見ていない。関わること自体が危険ですらある。


 実は、佐藤大輔さんの『目標!砲戦距離四万』という架空戦記短編集が自発的に小説を読むきっかけになった本なのだけど、そこから例の個人的な信仰により様々な架空戦記を読むようになるうちに、他方面に旅立ってしまいきっかけは中途半端に、それでいて強烈に自分の中に残った。

 ほとんど無意識のうちに『ダークウィスパー(山下いくと著)』や『戦闘妖精・雪風(神林長平著)』を手にしていたのは、故・佐藤大輔さんの存在が大きかったのではあるまいか。と思うほどである。

 大体からして、私が航空宇宙技術やSF作品、架空実在問わずメカというカテゴリに分類されるものが好きなのは、幼少期に初めて観たアニメが再々(中略)放送の『ゼロテスター』と『宇宙船サジタリウス』なのである。
 これが、まったく別の作品だったら、いま興味関心が振り分けられているベクトルは全く違ったと思う。もともと、自動車などが好きな子どもだったらしいが、それにしたって……と思い当たる過去がありすぎる。


 以前、作詞を担当した「Wish Bright Star!」という歌をニコニコ動画で公開した折に「サンライズ系のロボットアニメの主題歌っぽい」とよく言われたが、同じく当時から言っているように「サンライズではなくサテライト系」なのである。折しも『マクロスF』の熱気冷めやらぬあの頃、河森正治氏のファンである私がそうした背景まで考慮しつつ「狙って」書くとああなる。

 また「Wish Bright Star!」は曲先作詞のため、打ち合わせ段階では「○○系(一応伏せる)」という方針がRe:nGさんとの間で決まっていた。それに当時まだ根強い熱を放っていた『マクロスF』の影響を意識してあの様な歌詞にしたのである。

 こうした背景が読み解けたのも、狙い方がそうなったのも、大体一本の線で繋がってしまう。

 この線は、別になにかを作る人間ではなくとも、とても大切な線だと思っている。たぶん、なにをするにもこの線の有り様を読み解いて、真摯に——あるいは阿呆と言われるほどに——強固な物にしていくと、生きていくのが少し楽なる気がするこの頃である。

 個人的な信仰にしても、自分の理性への侵食を含め、人に悪影響を及ぼさなければ結構なものだとすら思う。

 どうにも面倒だね、人間は。
 それは私だからだろうか。
 参ったねえ。

 ※2020年6月17日加筆修正


※今回のヘッダー画像はモリコハルさんの「誰かの扉」を使わせていただきました。


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