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古今東西刑事映画レビューその39:CURE

2011年から2015年の間、知人の編集する業界誌に寄稿していた刑事物映画のレビューを編集・再掲します。

1997/日本
監督:黒沢清
出演:役所広司(高部刑事)
   うじきつよし(佐久間)
   萩原聖人(間宮)

 90年代後半の空気を色濃く映した映画である。
 同じころ作られた映画には、これと似た空気が漂っている作品が多い。空気と言う言葉が曖昧過ぎるなら、「その時、皆が心のどこかで考え続けていたもの」と言い換えてみよう。間違いなく、あの頃の私たちは、内省的だった。つい2年前に大きな災害や事件があって、この年にも皆がショックを受けた事件があった。何故、彼らは。何故、彼は。そして、彼らと自分は、どう違うんだろう。誰もかれもが頭のどこかで、多かれ少なかれ、そう考えたはずだ。
 果たして、私たちが自分と信じている人格は、本当に、完全に、自分自身で制御可能な存在なのだろうか? “CURE”を観ていると、多くの人がそれを疑った時代があったのだと解る。これはそんな映画だ。
 川崎のラブホテルで、女性が1人、他殺体となって発見された。頭を鈍器のようなもので殴りつけられたあと、首筋から胸にかけてを大きく「X」の文字のように切り裂かれたせいでの失血死だった。
 犯人の男はすぐに、そのホテルの通気口に隠れているところを見つけられ、捕らえられた。一介の、普通の、サラリーマンだった。殺意をもって殺人を犯した記憶はあったが、何故そうするに至ったかは解らないと首を振る。薄気味の悪い事件だった。
 実は、同じような殺人事件が、既に2件起こっていた。犯人は別々で、彼らの間に繋がりはなく、ただ被害者を何らかの方法で殺した後に、頸動脈を「X」に傷つけるという手口と、犯行の動機が本人にも解らないという点が共通していた。殺害方法は報道されていなかったため、模倣犯の可能性は無かった。
 この一連の事件を追うのは、警視庁の殺人課の刑事・高部(役所公司)である。親友の精神科医・佐久間(うじきつよし)の助言を得ながら犯人の心理に迫ろうとするが、全く糸口を掴めずにいた。
 同じころ、千葉で、地元に住む教師の男(戸田昌宏)が、記憶を失くし海岸を彷徨う若者(萩原聖人)と出会う。親切にも若者を自宅に連れ帰った男は、翌日、自分の妻の喉を「X」に切り裂いて殺した罪で逮捕された。それからも、若者を保護した警官(でんでん)や、若者を診察した女医(洞口依子)が、次から次へと理由なき殺人を犯す。被害者たちは全て首を「X」に切りつけられていた。
 重要参考人として捕らえられた若者は、間宮と言う名であることが解る。かつて医学部で精神医学を学び、催眠術の研究をしていた男だ。高部は、この間宮が、接触した人々に催眠術をかけ、身近な人間を殺害させたのではないかと疑う。しかし、記憶障害を持つ間宮への尋問は会話にならず、遅々として進まない。家庭では、精神を病んだ妻・文江(中川安奈)の病状が愈々抜き差しならなくなっていく。疲弊し、精神的に追い詰められていく高部は、ある日とうとう、佐久間の制止を振り切り、間宮と直接対峙する──。
 間宮は記憶を長く保つことが出来ない。なので、身の上を尋ねられても、何も答えられない。それどころか、自分がどこにいて、話している相手が誰なのかも、覚えられない。ゆえに、尋問者に「ここは何処」「あんたは誰」と問いかけ続ける。尋問者は苛立ちながらも、尋問を続けるためにそれに答える。自分のこと、自分の家族のこと、仕事のこと。何を愛し、何を憎んでいるか。
それが間宮の手口なのだ。否応なく自己と相対させられ、心の奥に封じている「本当の自分」を解き放てと誘われる。それに心が動いてしまった時、彼らは既に間宮の手に落ちている。そのやり方はあまりに巧妙で、悪魔的だ。
 対する高部は、刑事としての頑丈な仮面と、良き夫としての更に分厚い仮面をかぶったような男だ。常にストレスに苛まれ、抑圧されている。つまりとても、間宮に「捕まりやすい」人物なのだ。観客は、間宮の手口を知っているから、いつ高部が間宮に囚われるか気が気ではない。常に手に汗を握りながら、彼らのやり取りを追い掛けて行くことになる。2時間近い物語のほぼ全てを覆い尽くすこの緊張感はただごとではない。この映画の最大のみどころだ。
 他にも優れている点を挙げるときりがないのだが、まずはその演出技法だろうか。特に全編にわたって我々の心をざわつかせる、音響の効果が凄い。間宮が初めて登場するシーンの海鳴りや、心を病んだ文江が執拗に廻し続ける空っぽの洗濯機の、ゴロゴロと言う作動音。空調や、雨の音。至って普通の生活音が、彼らの負の感情を増幅させる装置となっているのだ。
 また、こう言ったスリラー映画で用いられがちな、画面の素早い切り替えやアップのショットも少なく、わざとらしく驚かせるような過剰な演出もない。むしろ、引きのショットや長回しを多用した淡々としたカメラワークが、世紀末の「理由なき殺人」の不気味さを引き立てているように思えてならない。視覚と聴覚の両方でもって、観客の生理的嫌悪感や不安感を掻き立てる手法は見事としか言いようがない。
 また、物語の全てに種明かしをせず、結末を観客の想像力に委ねるような脚本も良い。スッキリしない部分は多々あるが、映像の端々にそれに対する手掛かりが提示されていて、どんな形にも解釈が出来る。何度も繰り返し作品を観て、あの場面のあれはこんな意味だったのかもしれないと思いをめぐらすのもまた一興。観るたびに世界が広がって行くような作品なのだ。
 普通の人々の心に存在する闇を描く物語性、時代の的確な描写。作家の力量が存分に反映された映像、役者の演技も素晴らしい。
ラストシーンも鳥肌もの。最後の1秒まで気を抜いて観ることなど出来ない。“CURE”は、紛れもない傑作なのである。

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