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再び戦いの場へ

2003年3月の中旬、山形の雪が減ってきた頃、忙しいU野組の仕事もひと段落してきた。
親方には再び関東に戻る事を伝えた。
愛車のホーミーワゴン(FR)は雪道を飛ばしまくって農道でスピンして何にも接触せずに助かったもののバックした際に雪で埋まったガードレールにぶつかりテールレンズが割れてゲートも凹んでしまった。
ホーミーは売却して関東に戻ろうと思っていたので査定額が下がってしまい残念だが大雪の庄内で何時間も毎日車で走っていて大きな事故に遭わずに済んだし、何度か山形と関東を往復して試合会場への移動にも使っていた愛着のある車と別れるのは少々寂しかった。
U野組の給料と車の売ったお金が再びの上京資金になる。
最後の週末は3日連続、友人や後輩達と集まりどんちゃん騒ぎで飲みまくり、最終日は口の中がビタミン不足で口内炎だらけになっても飲み続けた。
車は無いので鶴岡駅から特急に乗り新潟から新幹線に乗り換えて川崎の登戸を目指した。

登戸に到着するとマンガ喫茶があったので、そこで一夜を明かしネットで部屋を探してみた。今みたいに部屋探しのサイトなど解り易い時代ではない。
結局翌日から不動産屋回りに。
もう借金塗れで部屋のグレードを云々言える状況ではなかった。なるべくジムや会社から近いところに住みたいが、現場作業員だから断られるなどなかなか良い条件の物件はなかった。

グリーンデビル

部屋を探しながら友人やジムの後輩の家を転々としていた頃、そう言えばあいつも関東にいたなと、とある一名の存在に気が付いた。
俺達が地元鶴岡のセントルに屯していた10代の頃、他の勢力では鶴岡駅前に屯している者が多かった。
その駅前で一番の暴君が、グリーンデビル(以下GD)と言う髪を真緑色に染めたひょろいが長身で柔道を悪用する悪魔のような男だ。
年は我々の一つ下になるのだが悪の限りを尽くし無免で無登録のXJR400に乗って老婆をはねた挙句、「このババぁが飛び出して来たんだ」と囲まれた警察官に叫び暴れるようなヤバい奴だった。
何故か我々には礼儀正しく喧嘩になるような事はなかったが、その分俺の通っていた3中の後輩達はGD軍団に虐められて恐喝をされたりしていた。
こんなエピソードもある。
一度3中の後輩の一人に「奴等から助けてくれ」とお願いをされた事があったのだが年下の揉め事に先輩が出るのは、どっかの誰か達みたいでダサいので自分らで戦えと俺が断った経緯があった。

追い詰められた3中の後輩達はGDを大勢で囲みボコる事を決意。
俺の実家近くのアミューズメント施設WAVEの駐車場にて腕っぷし自慢の巨漢M君にメリケンサックを装備させて襲撃。
不意打ちを喰らったGDだが頭から大量の血を噴きながら応戦。
100kg級のM君を捕まえると足払いで吹き飛ばしアスファルトに落ちたM君に肘を落としてパウンドの連打。
緑の髪に赤が混ざりホラーみたいな顔で怒り狂うGDを前にGBを袋叩きにするために集まった3中の後輩軍団はあまりの恐怖にに逃走したというエピソードもある。
我々より下の世代には実害もあるので異常に恐れられる存在だった。

そんな時代から何年も経った。
前に地元で会った時に電話番号を交換していたのだがGDは横浜で美容師をしていて住んでいるのは小田急線で登戸よりもっと先の湘南寄りのアパートに住んでいた。
とりあえずU-FILEで練習を終えた後にGDのアパートに行ってみる事にした。
思えばGDとは立ち話くらいしかした事のない間柄だ。
鶴岡から離れていったい何をやっていたのか?
お互い近況報告する感じで彼のアパートでビールを飲みながら語り合った。

高校も行かず暴れ狂っていたGDだが地元にいる時から美容師になる為に働いていた。
上京してからも美容院で働いていたのだが、何年ぶりかに会ったGDは地元で暴れていた頃の魔闘気は失せて、すっかり別人のようになっていた。
彼の口から出てくるのは職場の雇い主に対する愚痴、地元の同世代に対する愚痴、ずいぶん人生に疲れているようでため息ばかり出てくるのだが、反対に俺は再び格闘技で勝負しようとギラギラしていたので元気の無くなっていた彼にとっては刺激的な再会となったようだ。
昔は暴れていたけど丸くなったとか言う感じではなく人生に疲れてきてきている感のあるGD。
思えば格闘技に出会う前の足立区にいた頃の俺はもっと酷かった。
そんな状態だった俺に地元の先輩がやってきて聞いたこともない格闘技の話を熱く語りながら熱く語ってくれたら退屈な日常は変わったのかも知れない。
3日くらい泊めてくれと急に現れた居候だがGDはとても歓迎してくれていた。

蜂窩織炎

GDのアパートから小田急線で向ヶ丘遊園に向かう。12月に怪我した足も3ヶ月経つとだいぶ良くなってきた。
復帰に向けて練習を開始したところ右腕の前腕部が急に腫れ始めた。
少し化膿しているようで、U-FILEでは先に佐々木恭介がそれになって苦しんでいたのだが「お前のアパートの風呂がカビだらけだから、そんなのになったんじゃないか?」と馬鹿にしていたのだが、俺の症状は佐々木のそれよりもっと酷く、一晩で腕がふくらはぎのような大きさに腫れ上がり発熱。滅多に発熱をしない俺なのだが38度までも上がった。
しかも左足の膝辺りにも同じように炎症してしまい歩行すら困難な状態になってしまった。
これが人生で初めて喰らった蜂窩織炎、別名マット菌である。

U-FILEは練習後に一応雑巾掛けをしていたのだが、雑巾も誰かの忘れていったタオルを使い、ただの水道水で洗って絞り消毒液などの類は一切使っていなかった。
今思えばジムは酷い匂いだったがそれが当たり前になっていた状況で、当時はもっと汚い環境などザラにあった。

足を引きずってGDの家の近くの外科に行くと病院に来るタイミングが遅かった事を先生に注意された。
「格闘技だか何だか知らないけどこれもうちょっとで腕切断だよ」
脅しではなく熱でふらふらもしていて状態はかなり酷くなっていた。
化膿している中心に針のような物を刺されると看護師さんが2人がかりで俺の腕を絞り上げた。
激痛で叫び声を上げるも容赦なく絞られ大量の膿が放出された。
膿は酷い形状になっていてミミズのような形に固まって寄生虫のようにも見えた。
金属の受け皿に膿は受け止められ、もう打ち止めかといったくらいで消毒してもらい抗生剤の点滴を打った。
「しばらく練習なんてしちゃ駄目だから毎日来なさい」と言われた。
GDのアパートで寝込みながらジムの連中にメールで掃除の方法を変えないとヤバいと瀕死のメッセージを俺の腕の写真付きで送った。
4日間くらい点滴と膿搾りに病院に通い、足が痛くて歩けないのでGDの部屋で寝たきりの生活を送った。
週末に銀行のATMに行こうと、ゆっくり足を引きずって歩いていたのだが病院の休みの日だったので点滴と膿搾りはなかったので路上で看護師さんの真似をして足の膿を思い切り絞ってみた。
激痛で顔を真っ赤にしながら両手で最大限の握力を使った。
ブシュっと音が出るくらいに膝から膿が飛び出し血の塊みたいなのも出てきた。
その一撃で困難だった歩行がとても楽になった。
抗生剤の錠剤を飲み翌日の日曜日はディファ有明まで、俺のいない間に旗揚げしていたU-STYLEの2回目の大会を見に行く事にした。

DEEPとU-STYLE

4月6日、蜂窩織炎で倒れていた俺が復活するとGDはまた一緒に飲む事もできて、プロレス(U-STYLE)も一緒に観に行きたいと喜んでいたのだが「何で俺がお前と行かなけりゃいけねぇんだ?」と言ってがっかりするGDを尻目にディファに向かった。
GDには悪いが遊びではなく格闘技のテリトリーだと思っていたから1人で行きたかった。

プロレスと言えど会場バックステージは格闘家だらけで前年末の須田戦以来のディファ有明。
2Fのバルコニーから大会を見ていた。
まだ旗揚げ2戦目だったので客も結構入っていた。
お客さんのほとんどが田村ファン。出場選手もU-FILEの選手が多い。
エスケープだなんだとかサブミッションを極めたり倒しきらない打撃でプロレスをやっているのだが客はそれに拍手をして熱狂している異様な空間だった。
今回出場している田村さん以外のU-FILE勢に関しては全員俺より弱かった。
ろくに練習もしていない奴まで出ていた。きっと俺が田舎に帰っていたからジムの練習も緩くなり、まだまだの奴らが一丁前にリングに上がっているのだろう。
メインの田村さんは三島ド根ノ助と戦っていた。三島さんには一目置いていたし、田村さんは間違いなく強いのだが階級が違い過ぎた。
田村さんはUWFのようなルールの中では抜群の動きを魅せていた。
けど俺が目指しているのはこれではなく純総合格闘技だった。
ジム総出で取り組んでいるU-STYLEを見ながら俺はこれじゃ無いと確認した。
この時期の運営はDEEPが手伝っていた事もあり佐伯さんに挨拶をすると復帰を期待していると激励してもらい会場を後にした。

なんでも佐伯さんは桜井“マッハ”速人と俺の試合を見たいと言っているそうだ。
須田戦に続きまた俺を過大評価していると感じたのだが、やるからには最強を目指す。
相手が誰であろうと戦うことに関する迷いはなくなっていた。

復帰戦

蜂窩織炎もあって1週間も寝込み、カードローンもあるのに更に金がなくなり、借りる部屋のグレードを一気に下げなければいけなくなった。
借りれたのは家賃5万円のボロアパートだ。
6畳の和室とキッチンにユニットバスで洗濯機は玄関の外といった古いアパートなのだが、隣の中国人は何人かで生活していた。
中国人に対する偏見などはなかったのだが、このアパート生活で中国人が苦手になり、後には中国共産党を嫌いようになってしまった。

朝早く起きてアパートから再び購入したアドレスV125に乗り、中之島の榊工務店に向かう。
何ヶ月も休んでいたが同条件で再び雇ってもらった。
現場仕事に関しては冬の山形県で揉まれた事もありブランクも無く即戦力だった。
それからは再び肉体労働と練習をやり続ける日々が始まった。生活が落ち着いた頃に
7/13 DEEP 11th IMPACT in OSAKAのオファーを貰った。相手は慧舟會の久松勇二と伝えられる。
久松勇ニは前戦で三崎和雄のチョークで敗れているが、前々戦では三崎を苦戦させドローに持ち込んだ末のダイレクトリマッチだった。
三崎が苦戦するくらいの難敵ではあったのだが絶対に落とす訳にはいかない。
復帰に向けてボロアパートで暮らし仕事と練習漬けの日々を繰り返した。

他のジムとの交流もなくずっと鎖国状態だったのだU-FILEだったのだがジムの休館日であった月曜日を使わせて貰い出稽古を受け入れる事になっていた。
12月に怪我で田舎に帰る前に俺が考えていた案で田村さんが承諾してくれたので所英男君をはじめとするPODの面々、横須賀からネオブラ準優勝の長岡弘樹君、修斗で活躍していた植松直哉さんなども来てくれてU-FILE内でも緊張感のある練習が出来る日が増えていた。
12月の須田戦を経て、昼に練習している田村さん、上山さんを除けばジム内では俺の無双状態になっていた。出稽古が来ても俺がいればやられないし練習に来てくれた人も良い練習が出来ていたと思う。
怪我をしてから半年以上かかったが無事に復帰戦の日を迎えた。

11th IMPACT

今ではちょいちょい行く大阪だが、この試合までは行った事がなかった。
品川の新幹線乗り場に行くと対戦相手の久松選手がいてこっちを見ているので無視をした。

久松勇ニは整骨院を経営されていて自身が院長を務めていた。
ピンク色が好きでショーツもマウスピースもピンクでピンク先生と呼ばれる奇妙なキャラだ。
寝技はねちっこくて安定感があり、打撃も奇妙だがタイミングが読み辛く噛み合わない感じがした。
試合当日、この試合では黒いガウンを着ずに殺と胸にプリントしたTシャツを作りそれで入場した。
セコンドはこの大会から長岡弘樹君が付いてくれるようになった。わざわざ横須賀から毎週U-FILEに来てくれて向上心があり、MMAレスリングに関してはジムの連中より全然強いので組んでくる選手と試合する場合には最適なセコンドだった。

髪はGDが銀色っぽく染めてくれた。
開催地が大阪と言うか事もあり久松先生は阪神の応援団のはっぴを着て六甲おろしで入場していた。
俺はSlip knotのsicが流れると猛ダッシュで入場した勢い余ってロープに引っかかった。
リングインするや久松先生を殺す気で睨んだ。

急なダッシュにユタ嫁のカメラ間に合わず

1Rは久しぶりの実戦と言う事もあり感覚を掴みたかったので入場とは違ってゆっくり攻めてみた。
左フックを当てると組んできた久松先生を逆に倒して上を取った。
強いパウンドを何発か入れると場内が沸いた。この感じがとても好きだ。

1Rパウンドを落とす


確実に1Rは取れていた。
2Rになると久松先生が反撃をしてきた。奇妙な時間差でくるような打撃。
ピンクキャラとは相反する地味で硬い寝技。決定打はないものの盛り返されてしまった。
三崎がドローに持ち込まれるのもこんな感じなのかと納得出来た。
最終ラウンドはグダグダだった。ただここで負ける訳にはいかない。
最後に上を取って俺の勝ちだと印象付けた。
内容には全く納得出来ないし反省点だらけだったのだが2-0の判定で勝つ事が出来た。
須田戦前の大怪我から半年以上経って、キツい思いを繰り返し辛抱して復帰が出来たのだった。

大阪には山形からユタ夫妻も応援に来てくれていた。ユタ夫妻は週末によく飲んで遊んでいた事もあり、遠い大阪まで応援に来てくれたのだった。
試合が終わって大阪の地での打ち上げで彼等とわいわい騒いでいるのがとても心地良かった。

俺の試合の後に昨年末に試合した須田匡昇と桜井速人vs國奥麒奥馬と門馬秀貴のグラップリングタッグマッチが行われた。
結果は決め手がなくドローとなるも須田、桜井組が相手チームを翻弄。試合後のインタビューで「各々の実力はこちらが上」と須田さんが言い放ち、誰もがそれを納得出来る内容だった。
試合後の通路で須田さんとマッハさんに挨拶をした。
須田さんは笑顔で「手紙読みましたよ。またやりましょう」と言ってくれた。手紙が届いていたかも解らなかったので嬉しかった。
マッハさんには「U-FILE CAMPの長南と言います。機会がありましたら宜しくお願いします。」と挨拶をした。
関係者の多くがマッハさんに長南って選手と組まれるかもと噂になっていた時期だ。
実物と会ったところで俺の存在など驚異でもないのでマッハさんは笑顔で宜しくね〜と言った感じで握手をしてくれた。

大会終了後

大阪で応援団と打ち上げをして川崎でいつもの生活に戻った。次の試合について木下さんと電話で話すと次はマッハだよと伝えられた。

山形から応援に来たユタ夫婦と当時大阪にいたオッツン

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