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高校生活

高校の入学祝いに両親に貰ったのは新しいマウンテンバイクと“不思議の海のナディア”のレーザーディスクの全話セットだった。
ナディアはNHKで放送されている時にどハマりして毎週欠かさず見ていたのだった。
後に同じ庵野作品であるエヴァが後に社会現象的に流行るのだから先見の明があったのだろうか?

西校

ナディアは置いといて新車のMTBで市街地から離れた西高まで毎日通う事になる。ぶっ飛ばしても片道30分はかかる道のりだ。
西高は三中と違って制服もわりと自由だった。短ランもボンタンもお咎め無しだったのだが面倒なので最初は中学同様に標準服を着て登校した。

髪も自由だったのだがこの頃の俺はリングスオランダのような刈り上げ頭だったのでこれと言って目立つような容姿で登校はしていなかった。

全校生徒の人数が三中より少なく、また成績も普通の学校だったので普通の人達が集まってる普通の高校だった。
上級生にヤンキーみたいな人もいたが俺からしてみたら喧嘩すれば全員に勝てるからどうでも良い存在でしかない。

西高入学後、日が経つに連れて大人しかったような男女がどんどん服装も変わりタバコを吸い出し外見も豹変していくのであった。
いわゆる高校デビューと言うのが圧倒的に多い学校だった。
しかも女子達の憧れの的はヤンキーだ。
別に聞きたくも無い話だが、女子の同級生達が話すその声は自慢話をするかのように大きく、何中だった誰々がとか誰々先輩がとか話してるのだが、登場するヤンキーがだいたい知ってるような奴で内心見下すようにだせぇ~と思っていた。
だって俺の方が強いから。

男子達も急にタバコに目覚め学校裏の大山公園に休み時間に吸いに行くのだったが、俺にとっては体に害でしかないタバコは興味が全く無かったし西校生が楽しそうに話す遊びの話も全く俺とは合わず、俺の西高ライフは一気に冷めていくのであった。

三中の廊下でローリングソバットをしていた時期が愛おしい。皆どうしているのだろうか?

その頃、鶴工に入学したベーサトは夢に向かって走り出していた。
朝は新聞配達、学校が終わればガソリンスタンドで働きF-1レーサーになる為にカートのレースを始めようと日々バイトに明け暮れ頑張っていた。
レースはとてもお金がかかるそうだ。

そんなベーサトには負けていられない。
俺は何をやれば良いのか?高校生活のつまらなさを感じながら格闘技通信をいつも読んでる俺にクラスメイトの一名が俺に興味深い情報を提供してくれた。
鶴岡駅の裏に極真空手の広告が電柱に貼ってあったと。

極真空手田畑道場

鶴岡にフルコン空手は存在しないと思っていたのだが実はあったのだ。そのクラスメイトと駅裏の広告を見る為に放課後に自転車を駅裏まで走らせた。

チラシのあった電柱近くにある市営の体育館で、週一回の稽古があり道場生募集とその電柱に貼り付けられた広告には書かれていた。
時間などをメモって次の稽古の日には見学に行く事にした。

翌金曜日の稽古当日、見学と言うよりは裏の小窓から覗いていた。
基本稽古は小学校の頃の空手と似ていたのだが移動稽古で構えが変わると回し蹴りや後ろ回しなど華麗な蹴り技を師範と皆が繰り出していた。
とにかく自分の知ってた空手とは違っていた。

時間が経つと後ろの方にいた黒帯の壮年部の方が我々に気付いて中に案内してくれた。
その後入会の説明を受けて翌週から通うと言う事になった。
せっかくなので小学生の頃に一緒に空手をやったモリ君も誘った。我々の友人の中でも一番長く空手を続けたモリは和道流で初段まで取っていた。

この頃の極真は大山総裁がご健在で分裂はしていなかった。
他流試合も禁止されていて世界中に門下生がいてかなりの競技人口だ。そんな中で当時の山形支部は他の支部に比べるとまだまだ小さく弱かった。

当時は代表の田畑師範が一人で県内の各支部を毎日ワゴン車で回り、間借りの施設で指導をされていた。故に鶴岡支部の練習日は週に一回の金曜日だけだった。

俺は一心不乱に練習した。週一回しかないので自主練がほとんどだったけどモリともう一人のタクドンを自主練習につき合わせた。

小真木原公園の敷地を大きく何週も走り自分達で買ったイサミのミットを蹴り込んだ。
単純に洗脳される俺は極真こそが世界最強だと思い込むようになった。時は第5回世界大会(緑健児氏優勝)の頃の話だ。

「三中の長南が極真空手を始めた」
町にはこんな情報が流れ出す。紛れもない事実ではあるが腕自慢のヤンキー達は俺を見ないようにする事になる。
空手をやってなくても強かったのに空手なんて始めたら手がつけられないのでは?実際年上の一部は集団で俺をやろうとしている奴もいたようだ。

俺は三中学区エリア外にはそんなに出ていかなかったし当時の暴走族が溜まってるような場所に用事は無かった。

空手の練習にジャージを着てMTBで鶴岡駅を通過する際ヤンキー軍団がたむろしていた。
しかしその集団は俺には気付かないし俺の視線は駅裏の体育館を真っ直ぐに見ていた。

俺が求めてるのは口先だけのヤンキーでは無く強者だった。
しかし身近なところに強者はいた。

上田君

西高の武道館をちょろっと歩いてると3年の柔道部の人達がいた。柔道部物語みたいな容姿の皆さんだったが、その中の一人に「おう」と話しかけられた。

一瞬誰だか解らず?な顔をした俺にその人は「極真で会ってるだろ」と言った。極真の体育館で会う光景と学校での光景がマッチせず気付かなかったがその先輩は極真の先輩で西高の2つ上の先輩でもある上田君と言う人だ。

学校祭で腕相撲の企画があった時の事、柔道部に強い人がいたそうで上田君はその人が優勝するだろうと思っていたら、その人を破って簡単に優勝したのが一年の俺だったのだが、そんな事もあり俺を少々気にかけてくれていたようだ。

上田君は自分以上に格闘技が詳しく、とても優しい人でいろいろ面倒を見てくれた。
温厚な人で顔も童顔だったので強者のオーラは発していなかったけど間違いなく強い。
バイト代が入ると飯を食わせてくれたりプロテインを買ってくれた事もあった。※当時のプロテインは不味過ぎて半分くらい残した状態で賞味期限切れになってしまった事をこの場を借りてお詫び申し上げます。

周りが誰々先輩のグロリア乗っただので喜んで騒いでいる時に俺は上田君と格闘ロマンについて何時間も話し合った。復刻版”空手バカ一代”を全巻上田君に貰って夢中になって読んだ。

極真を始めてから格闘技通信に加えて極真空手の機関紙である”パワー空手”を毎月買うようになった。
年末は同道場の黒帯の方が経営されている蒲鉾店でバイトをさせてもらった。そのお金でサンドバッグを買い車庫に吊るした。

隣の酒田市の分支部には後にシュートボクシングやキックで活躍することになる土井広之先輩がいた。上田君と土井先輩は同い年で3人で話した事もあった。
土井先輩はその時から上京してシュートボクシングに出たいと言っていたのが印象的だった。

練習の時は鋭い回し蹴り系が上手で後にキラーローと呼ばれるローキックはこの頃から痛かった記憶がある。

上田君は自分同様にリングスも好きだったので柔道を混ぜた総合格闘家を目指しているようだった。
残念ながら山形でMMAの試合などは無いのだが柔道場で技を習った事もあり刺激的だった。


空手は完全に自己満足の世界だったのだが当時の俺やベーサトは何か一生懸命に打ち込む事により自分が周りとは違う特別な人間であると勘違いをしていたのだと今になって思う。
わいわい楽しく10代を過ごすだけの連中を当時の俺達は見下していた。

反対に我々は一般的に注目されていない物に対して取り憑かれたよう夢中になり、周りからは白い目で見られるような存在だったかも知れない。

そんな空手バカになっていた俺だけど高校2年の夏、空手を揺るがすくらいの衝撃と出会うのだった。

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