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「人の気持ちは、実際にその立場になってみないと分からない。」

私が常に大切にしていることだ。





私は今、大学に通っている。
高校までは公立の学校に通い、大学も国立大学を目指した。
それは、公立の学校に通い続けることが最大の親孝行であり、それが「カッコイイ」と思っていたから。
それまで勉強面は優秀で自信があったこともあり、大学選びにおいて「国公立大学」というネームバリューに最高の魅力を感じていた。


親戚の集まりで国立志望だという話になると、合言葉かのようにほぼ全員が

「ずっと公立に通うなんて、親孝行な子だねぇ。」
「偉いねぇ。」

と言って微笑んだ。
これは私にとって、最高の褒め言葉以外の何物でもなかった。
こんなこと言われたら、誰もが喜ぶに違いない。




しかし、夢はやぶれて私立大学へ進学することになった。

勉強も手を抜いたことはなかったし、全力を尽くした。後悔はない。

…でも実際は、公立に行けなかった自分がカッコ悪くて仕方ない、大学名を言うのも恥ずかしい、親にも申し訳ない、という気持ちが付きまとい続けた。

この瞬間、
「ずっと公立に通うなんて親孝行な子だねぇ」という言葉が、賞賛の言葉から皮肉の言葉に変わった。
いつの間にか、私の記憶の中で優しく微笑んでいた親戚の顔は、「親不孝者」と言って嘲笑う顔に変わった。



あの嬉しい気持ちは夢だったのか。

まさに、 
”Now life has killed the dream I dreamed.”(夢やぶれし我が人生)といった気分だ。





これは、私が国立大学に受かっていたら絶対に知らなかった感覚。
「ずっと公立一本のカッコイイ私」には、「国立に行きたかったけど叶わなかった私」の複雑な気持ちは到底理解できないだろう。




この時に学んだ。
実際にその立場になってみないと分からないことが山ほどある。
もっと言えば、分かるはずがないのだ。
だから、分かろうとして考える。考え続けなければならない。



そして考えるよりも先に、まずは「『分からない』ということを分かる」ことの方が大切なのではないか、と私は思った。

初めから相手のことを分かろうともしない人にとっては、「お前は何も分かっていないんだぞ」と気付かせるために。
相手のことを理解しようとしすぎるあまりに行き詰まる人にとっては、「分かり切れない部分だってあるんだよ」と気付いてもらうために。





これはジェンダーや差別等の問題にも繋がると考えている。当事者と非当事者が混在する中で、互いに歩み寄らなければ解決できない問題。

分からない。だから衝突するだろう。
でも、分かろうとしなければならない。
でも、その人にしか分からないことだってある。

(ジェンダーや差別については、詳しくは長くなるのでまた別の機会に。)

少しでもお互いがお互いを考えることの出来る、優しい人が増えればと願って、このような文章を書くことにした。

少し話が飛躍しすぎたかもしれないが、最後に私の好きな言葉を紹介して締めくくるとする。


「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」

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