見出し画像

「普通」を捨てて

世間には、普通という概念が存在する。

「普通の人生を歩みたい」
「普通の幸せが欲しい」
「普通の仕事に就きたい」


…こんな言葉をよく聞くが、普通とは何だろうか。



私は左利きだ。
生まれてからずっと何をするにも、左手で、左足で、左目で、左から。


もう左利きが矯正される時代でもなく、むしろ周りからは重宝されていた。
珍しいね。羨ましい!天才になるんじゃない?
子供心に、自分は普通じゃなく特別なんだと思うようになった。


左利きは、その「自分が特別だという優越感に浸れる」権利と引き換えに、生活する上で不便なことは多い。

黒板やホワイトボードには文字が思った通りに書けないし、ペンも壊れやすい。はさみやおたまなど、右利き用しか売っていないところがほとんど。人と並んでご飯を食べていると高確率で腕が当たる。謝らなきゃいけない。ダンスをしていた時には、右利き向けの振り付けが基本なので自然に動けないことも多かった。


ここには書ききれないくらい、日常生活の一挙手一投足を掘り下げていけば、左利きが面倒な点は無数に発掘されるだろう。

確かに、不便だ。


しかしこういった不便なことに対し、何とも思っていないこともまた事実である。

「毎日大変じゃない?」「いちいち面倒だね」と気にかけられることも多い。
確かに傍から見たら普通でないかもしれない。でも、自分は特別だという思い込みはもちろん歳を重ねて薄れていき、左手で、左足で、左目で、左から、という行動は私にとって全て「普通」だ。
毎度この不便を受け入れることが私の人生の初期設定だと思っているので、特に気にならない。



普通という概念が存在することで、人は普通じゃないと思えるようになる。特別だと言えるようになる。

世間から見たら普通じゃない自分を、他の人と比べてこっちは大変なんだと、まるで被害者で悲劇のヒロインかのような振る舞いをすることも出来る。普通が欲しいと嘆くことも出来る。

どうして私だけこんな不幸なんだろう、どうして私だけこんな学校に入ったんだろう、どうして私だけこんな性格に生まれたんだろう…どうして普通じゃないんだろう。
常に普通じゃない自分と対峙するのは、辛い。


こう考えてしまうのは、「普通」という基準を、自分の外側に設けているからではないか、と思った。

自分とは違う道を進んでいる他の人の人生が普通だと思うから、自分の人生が、自分が今まで経験してきたことが、普通だと思えない。

自分だけがこんなに苦労している。
自分だけが苦しんでいる。

そう勘違いしてしまう。




本来は、それが「普通」だ。
みんな状況は違えど、同じように苦労や葛藤を重ねて人生を送っている。あなたは普通なのだ。



だから、基準は自分の中に設ければ良い。

暴論かもしれないが、
自分が全て。自分が普通。違うことがあれば、それは他の人が普通じゃないのだ。



それくらい自己中心的に生きて良いと思う。

自分だけを愛して、生きて良いと思う。

外側にある普通なんて、便宜上作られた概念だろう。

気にしなくていい。

 
「普通」は全員にとっての共通認識のような大きな顔をしているが、『自分にとっての「普通」』は、人それぞれ。



自分を基準に、生きていきたい。

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?