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私は漫画を描き続けたい訳じゃなくて、漫画家になりたかった。

高校生二年生の頃、部活をやめて暇になって「バクマン」を読んだ私は、軽率に漫画家を目指し始めた。
なんとなく始めたのに、行動力だけが無駄にあった私は作品ができるたびに東京の出版社に持ち込みに行き編集部を回った。
日常にない刺激が、ドキドキがとても楽しかった。
学校を卒業して、その後介護施設に就職し、漫画を描きつつ持ち込みを続けて19歳はじめて担当さんが着いた。
正直、持ち込みで名刺を貰って「一緒にデビューを目指しましょう」と言われて夢が叶ったくらい嬉しかった。
だがその後、そもそも絵を描く事がそんな好きじゃなかったし編集さんにネームを出すこともろくにせず自分に漫画家は向いてないと、次に好きなお笑いの作家の養成所に入学した。

だが卒業し結局、自分の作ったものは自分で表現したくてまた漫画を描きはじめた。
そんな中、京まふの出張編集部でとある編集さんに出会った。
この編集さんとの出会いが私を「描き続けたい漫画家」にしてくれたと今でも思い出す。
結論からいうと、一年ほど毎週ネームをだし直しを繰り返し一緒に漫画を完成させて投稿したのは2回だけだった。

じゃあなんでこの編集さんが文章に描きたいほど印象に残っているか。

それは、はじめて作品だけじゃなくて私という漫画家を育てようとしてくれた人だったから。
はじめて私に才能を感じでくれていると思わせてくれた人だったから。

漫画家は編集さんが自分とどのくらい向き合おうとしているのか、なんとなく見分けがつくと思う。
正直、一緒にやっていて「この編集さんは私をかってくれているんじゃなくて自分が編集者として凄いからお前も売ってやるよくらいに思っているんだろうな」と感じた方もいた。そう感じると心を許して一緒に作品を作ることはできない。

(わかりづらいので、私を育ててくれた編集さんを今後、編集Kと表記します)

編集Kは投稿者の私にとって先生だった。
なにも分からない私に分からないたびに何回も教えてくれた。
わかりやすいように色んな作品に例えたり、違う言葉を使ったり成長しない私でも諦めずずっと正面から向き合ってくれ続けた。
だけど、当時だからこそ辛かった。
編集Kは「10年後漫画を描き続けられる漫画家に育って欲しい」と言った。
ただ私は今すぐデビューの賞が欲しかった。
その頃にはもう25歳で、周りの目もあるし
いち早く漫画家志望じゃなくて漫画家と名乗りたかった。
そして私は編集Kと離れて、DMで声をかけてもらった編集さんと連載をする道を選んだ。

でもはじめての連載が決まった時、はじめての連載が始まった時、終わった時、決まって思い出すのは編集Kへの恩と一緒にデビュー出来なかった後悔だった。

ずっと編集Kを先生だと思っていた。
だからこそ、デビューして、売れて、漫画家と編集者として対等に作品を作れる漫画家になりたかった。

はじめての連載が終わり、私はすぐに編集Kに連絡した。そして再びネームを見てもらったがすぐ編集Kは移動になり、私が描いていないジャンルの副編集長になった。
編集者から管理職になった。
最後の打ち合わせの時に聞いた。
「編集Kからみて私の漫画の長所ってどこですか?」
すると、
「たりほさんのなかにあるキャラクターの泥臭さと不器用さだと思います」
と編集Kは答えてくれた。
私は編集Kと出会った頃泥臭さい程の努力の仕方も、不器用でも漫画と向き合い続ける勇気を持ち合わせていなかった。
だから、その泥臭さと不器用さを引き出して育ててくれたのは編集K、貴方なんだと思います。
毎週ネームをだして、通らなくて打ち合わせ中泣いた時「編集者の前で泣いていてはデビューなどできない。貴方が泣いている間に何人もの人が努力してると思ってるんだ」と怒られた。
すっごいムカついたけど、次の日には別のネームを完成させてすぐにみせた。それも没だった。

出会った中のどの編集者よりも厳しくて、裏では誰よりも私に期待してくれていた。

初めての連載は、報告もしていなかったのに「読みましたよ」って感想をくれた。

貴方がいたから漫画家になれたけど、
その先で連載というものは漫画家のスタートにすぎないのだと気づいた。

私には、必ず認めて納得して「面白い」といって欲しい読者がいる。

それは、一番最初に私をみつけてくれた。
編集K、貴方です。

今はまだちっぽけで足りない私だけど、
いつか、面白いと叫んでもらえるその日まで
頑張ります。

たりほ

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