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くたばれ一流エリートビジネスパーソン

 あぁ、やられた…ついに、ここも奴らに攻め込まれたか。駅ビルの大型書店で学術書を漁っていた私は、ふとこんな書籍を見つける。『世界のビジネスエリートが知っている 教養としての茶道』…最悪だ。エリートなビジネスのパーソンたちが、また新たに文化を侵食しに来た。

 この潮流って、いつぐらいからだろう?白ベースにでっけ~ゴシック体で、たまにフリー素材みたいな写真が中央に据えられてる、自己啓発本のあの装丁。タイトルは、「一流ビジネスパーソンはなぜサウナに行くのか?」「外資コンサルが教える最強の読書術」「ZEN~世界のエリートが実践する禅の教え~」みたいな規格化された言葉の羅列(いま適当に考えたが、たぶんある)。

 彼らは世のあらゆる文化・芸術・学問に土足で這入り込み、効率的にそれを消費して回る厚かましい人種である。サウナも読書も禅も、ビジネスや自己啓発のために存在するのではない。サウナなんて、打算抜きでよくわからないまま自律神経をシバいて気持ちよくなる、そういうものだった。読書だって、快楽や知識のためであって、装飾のためではない。禅も、万物と一体になるその瞬間のためであって、生産性を上げるためではない。大体、社会もビジネスも、みんなで記号を消費するための空虚な場なのだ。そこに文化を利用して内的動機をでっちあげるな。汚れた手であちこち触るな。

 冒頭に戻るが、損得勘定抜きで茶道を学んでいた私にとって、書店であの装丁を見かけたときの衝撃は大きかった。短髪でスーツに身を包んでギラギラの腕時計をちらつかせながら腕組みする、そんな彼らが土足で畳に上がってくるのも時間の問題と思っていたが、存外それは早かった。落胆と苛立ちを3:7にその本を開いてみたが、やはり、希釈された教養がスカスカの行間に小奇麗にわかりやす~くまとまっていた。私は、文化や芸術や学問をわかりやす~く引き延ばして、時にはエンタメ化して、一過性の消費物に仕立て上げるという営為が嫌いだ。ちょっと昔に流行った『超訳 ニーチェの言葉』なんかはその最たるものだ。そんなこと言ってないのに、ビジネスパーソン様のストーリーに合致する表象としてわかりやすく切り取って勝手に価値付けするという、無邪気で超失礼な解釈がまかり通っている。そんな表象を無批判に吸収し続けることを「勉強」と思っている者さえいる。

 今日も彼らは、通勤電車で効率的に文化芸術学問etc.を攻略ハックし、教養ポイントを貯めていく。その攻略の過程はきっと禁欲的で、とても楽しいのだろう。自己啓発って結局そういうものだ。攻略法があるものなんてみんな下らないのに。「意識高い系」が蔑称として定着して久しいが、「一流エリートビジネスパーソン」みたいな言葉も同類だ。さっさとくたばれ。


イエローページ vol.22(2021/10/25)にて掲載
2024/7/13 加筆修正

この頃の自分、割と尖ってたな。
レジー著『ファスト教養』集英社新書 (2022) では、より分析的にこの教養主義に切り込んでいて面白かった。
一言でいうと、彼らの求める教養とは結局、お金を稼ぐためのツールなのだ。