50スキのおしらせ

メールを見ていると。noteのスキのおしらせと共に、「50スキのおしらせ」というものがきていた。

初めて見る50スキのおしらせ。スキ総数が50を超えた?いや、総数が50ということはないような…と思いつつクリックすると、1記事で50スキを突破したと。そんなお知らせだった。

該当記事は、8月2日に投稿した「自分に素直であるということ」。確かにスキのおしらせはわんさかきていたけど、まさか50もスキされていたとは。そんなにいっていると思わなくて、嬉しさよりも戸惑いの方が勝ってしまった。正直なところ、そこまで実感がない。

私の中であの記事は、特別「いいこと書いたぜ!これは受けがいいだろう!」と思いつつ書いたなんてことは全くなく。練りに練って推敲しまくった渾身の作ということもなく。他の記事と同じ感じで同じ風に淡々と書いたものなのである。

それが何故か、初日からスキされる回数が多く。「あなたにおすすめとか、そんな場所にたまたまよく出てるのかなぁ」とぼんやり思っていたら、次の日もその次の日もスキのお知らせがくる。何日経ってもくる。「スキのお知らせ=ほぼその記事」になっている。

いや、一応毎日投稿してるし、新しい記事他にもあるんやで、と思いつつも、伸びている記事にばかりスキが来る。そしてあっという間に、今まで一番スキが多かった記事(おそらく20くらいだったと思う。じわじわじわじわ、忘れた頃にスキをされて伸びていた)を抜き、トップになってしまった。

いわゆる「バズる」という人の体験を少しだけできた気がする。確信犯なら気持ちいいのかもしれないが、全く予想していないと戸惑いの方が大きい。

スキの通知を受ける度に、自分で制御できない、どんどん自分の手を離れていっている感じがした。1人、2人なら面と向かって普通に相手に向けて話しているのと変わらないが、50人である。それもあくまでスキしてくれた人の数であって、もっと多くの人に読まれたことは間違いない。

1人2人が相手でも、本当のところ、制御はできていないのだ。私は読んでくれた人がどう感じたかなんてわからないし、それがどう相手に作用したのか、本当のところはわからない。ただ、それが50人にもなると。それだけ与えた影響の総数は大きくなる。

人の数だけ思いはあるわけで、私が想像する感想や意見とは全然違うものを感じた人も当然いるだろう。その全てを私は知ることができないし、責任を持つこともできない。何を読んでどう感じるかはその人の自由だし、そこに私が責任を持つ必要も無いのだが。人数が増えれば増えるほど、自分の手に余る、制御できていない、そんな気持ちが出てきた。少し怖くもあった。

「自分が生み出した文章=子どものようなもの」であるならば、もうあの記事は成人して、私の手を離れていってしまったのだろうな。1スキ1歳で今50歳ということは無いと思うので、2スキで1歳、今25歳くらいだろうか。

もう私の手を離れ、自分の道を進んでいっているのである。私の知らないところでその記事と誰かが出会い、何らかの感情を生み出しているのである。それは私が干渉できない部分で、制御しようもない。その記事自身の人生(記事生?)である。

ある意味で、息子が家を出たらこんな感じなのかなぁと想像してしまった。じわじわと子離れしていかないとなぁ。

おそらく100スキの時もお知らせがくるのだろうが、私のnote人生でそこまでスキされることがあるかどうかは不明である。

これからも淡々と投稿して、まれに成人する記事が出てくる。そんな場所になるといいな。


ではまた明日。