要は信用していないという話

何となく昨日の続き。自分の中でちょっと引っかかっているので、昨日は少し考えていた。

なんで私は人といるのが苦手なんだろう?という話である。長いし明るい話ではないだろうし、場合によったら傷つく可能性もあるかと思いますので、読むかどうかは自己責任で〜。


自分で言うのもなんだけれど、基本的に私は善良な人間である。

他人に対して自分から攻撃しにいこうとは思わないし、自分も他人も不幸であるよりは幸せであった方がいいと思っている。

決して人が嫌いなわけではない。まして相手が攻撃してくるわけではなくて、友好的な態度をとってくれるなら尚更、そこに過度にストレスを感じなくてもいいハズなのである。

けれどもやっぱり誰かと話すって、1人でいるよりは疲れる。もっと言えば、人数が増えれば増えるほど疲れる。更に言うなら、話していなくて同じ空間にいるだけで疲れる。


思うに。例えば同じ空間にいる人皆が自分の目の前のことに集中していて全然周りを気にしていないなら、たぶん疲れにくいのだと思う。人混みとかでも物凄く疲れる時は疲れるけれども、それは周りの情報が多すぎて疲れているだけなのでたぶんちょっと違っている。

目の前に誰かがいたとして。その人が

・私のことをほとんど気にしていない状態
・私がいると認識している状態
・私がいると認識して更に意識をこちらに向けている状態

なら、明らかに一番最後が疲れるのだと思う。

何で疲れるのかと言えば。これはもう、「相手を不快にさせてはいけない」という気持ちが発生するからなのではないかなぁという気がする。

相手がこちらを気にしていないなら、こちらが何をしていようと相手に影響はない。でも、相手がこちらを気にしているなら、こちらの行動次第で相手の何かが変わる。

おそらくそこを意識してしまって、疲れるのだと思う。「相手を不快にさせるのは悪いことだ」という意識があるから尚更、疲れるのだと思う。人数が多ければ多いほど意識する事柄が増えるので、更に疲れる。そういうことのような気がする。



ただ、である。本当のところ、相手がどう思うと私には一切関係ないことではあるのだ。

目の前の情報から何を受け取って、どう感じて、感じたものをどう処理するのか。それは私の仕事ではなく相手の仕事で、私には一切関係ない。だから、「相手を不快にさせないように」なんて考える必要も、本来ならそんなに無いのだと思う。嫌なら離れればいいだけなのだから。

だけど、私が生きている今の場所だとそれはちょっと難しい。生活上、ほいほい簡単に関係を断ち切ってその場を離れられるのかと言えばそうでもないので、なかなか「今後を全く考えず行動する」というのも難しい。

また、私が「相手が自分で自分の機嫌をとれると信じていない」というのも大きい気がする。


相手が自分で機嫌をとれる人ばかりなら、こっちは何も考えずに自分を出せばいいだけのハズなのである。相手を慮って「相手が気分がいい状態にしなければ」と思うのは、「相手が自分で自分の機嫌をとれると信じていない」ということだと思う。

まぁ実際、自分で機嫌をとれる人ばかりかと言えばそんなことは無いし、機嫌が悪くなればこちらを攻撃してくる人も存在するので、現時点で「相手の機嫌をとる」という視点をゼロにしたらいいとも思えないけれども。

自分で自分の機嫌をとれる人も世の中存在するハズで。大抵の人はそれなりに自分の機嫌はとっているというか、即相手を攻撃する方向にはいかないハズで。

だけどその辺、たぶん私は他人を信用していない。

だから必要以上に「他人が不快にならないように」を気にしてしまって。だから疲れるし、人付き合いって面倒、なるべく関わりたくない、が先に来るような気がする。


最初にも書いたけれども、別に人が嫌いなわけではないし、皆幸せであればいいと思っている。それは本当である。

ただ、今の世の中の人付き合いが何か歪で、やりにくいものなのだろうな、と思うのも本当である。

もっと気軽にくっついたり離れたりできて、表面上はベタベタしなくても根底では信用しているような。そんな感じなら、きっととてもやりやすいし、人付き合いも苦痛ではないのだろうと思う。

相手も自分も自立している。そう信じられる世界ならば、きっととても楽なのだろう。


でも現状、とてもそうは思えないし。そもそもそういう思考を意識して持っている人がどれだけいるのだろう状態なので、他人を信用することは当分無いのでは?と思う(正直、夫や息子でさえそういう意味では信用していない。大事だし好きだけどそれとこれとは別)。

結局、相手に失礼が無いように、表面上波風立たないように、と人間関係は気を遣うことになって、疲れるんだよなぁという。

別に相手に合わせなくてもいいんだろうけど、相手から「こうして欲しい」オーラが出ていたら「あー、じゃあそうしましょうかー」って自然になりがちなのである。

自然に相手の要望に合わせてしまう自分も悪いんだけど、まぁこれをしているうちは、他人を信用することはないのだろうなと思ったのだった。




以下蛇足で思ったことなど書くと。

ところで私の中ではこの孤独さ(?)は昔から普通のことなんだけど、他の人もそうなのだろうか。

相手のことを大事にしてないわけじゃないし、幸せでいてくれたらいいし、接している時にはなるべく不快でないようにしたい。でもあなたのことを心からは信用してないし、心の距離や壁はありますよ、的な。

これはもう、私の中では親だろうと夫や息子が相手だろうと例外なく普通にあるものなので、それが無い世界はちょっと想像できないレベルなのだけれど。

おそらく人によったらそうではない(そうと感じていない)のだろうなぁと思う。

この違いはどこから来ているのだろうな。個性と言えばまぁ、それまでなんだけど。


こちらから提供できるのはこれだけです。あなたが不快でないようになるべく善処します。でもあなたから特別何かを与えて欲しいとは思いません。あなたがしたことによって私が喜怒哀楽を感じることはあるので、こちらがもらうものも確かにあります。でも特別期待はしてないし特別仲良くしたいわけでもないので、こちらのことは気にせず好きにしてくれたらいいです。

たぶんこれって、人によったら傷つくスタンスというか、距離があるのだろうなぁとは思う。

私としても交流する気が無いわけじゃない。流れの中でお互い嬉しかったり、楽しかったりすることもあるんだけど。でもだから相手のことを信用してるか、相手に対して壁がないか、って言われたら、まぁそんなことは無いよね〜という。

結局私にあんまり他人と深いところで交流する気がないというのもあるのかなぁ。いや、流れで交流する時は、真剣に相手のことを考えて動くし、ほっこりすることもあるけれども。だからその人と距離が近付いたり相手を信用できるのかと言われたらそれは別。できればちょっと離れたところから傍観者でいたい、という。


うーん。これが一般的なのか、理解不能なことなのか、ちょっとわからない。なるべく文章で表現しようと思ったけど難しい。たぶん一般的ではないのだろう、と思う。


まぁ結局のところ、他人に合わせるのが面倒で疲れるから人といるのが苦手、てことになるのかなぁ。

直面したら相手のことを考えて真剣にやってしまうので、そこに嘘はないんだけど。でも正直、疲れに対する対価はあんまり無い気がする。



ではまた明日。