「爪切り」は手伝いに入るのか問題

ある日小学校の宿題に、こんな項目があった。

「おてつだい」

である。

宿題として手伝いが出るってどうなん、強制されてその日に無理やりやるもんじゃなかろうに、と思いつつ。しかしそうでもしなければ手伝いを経験しない子もいると思うので、皆が手伝いを経験しやすいという点ではアリなのか?とも思いつつ。


実は何度か出ているこの宿題。GWに出た時には田植えを手伝ってくれたのでそれでいいやん、と言って。その他何やかんやと「あれやってくれたからそれでいいやん」と言い続けていた。宿題として意識していなくても、実際手伝ってくれてこちらは助かったのだから問題なかろう。

しかしある日。特に何かを手伝ってくれたと言えない日にその宿題があった。正直、宿題の手伝いなんてやったかどうか確認しようがないんだし適当でいいやんと思うけど(悪い大人)息子は何かやりたいらしい。

息子に何かやってもらうことー。やって欲しいことー。少し考え。ふっと思いついたのは「爪切り」だった。誰かの爪を切ってもらうのではない。息子自身の爪切りである。

現状、息子の爪を切っているのは私である。小学生になったし、そろそろ自分で切る練習をしてもいいのではないかなぁと思っていた。

息子の爪を切る間、当たり前ながら私は他のことができない。私の時間を使って息子の爪を切っていると言える。息子が自分で爪を切れるようになれば、その分、私が自分のために使える時間が増えるのである。私にとって助かることだし、私を手伝ってくれていると言える。

ただ、端から見れば「息子が息子の爪を切っている」だけなので、「どこが手伝いやねん、自分のことやないか」となる。

果たして「爪切り」を「お手伝い」に含めていいのかどうなのか。私としては助かるし、手伝いになるのだけれど。爪を切ることに慣れてその技術を習得してしまえば、さすがに手伝いには入らないかなぁと思わないでもない。


料理の手伝いでも、掃除の手伝いでも、何でもいいけれども。子どもに「お手伝いをしましょう」って言うことの最終目標は何なのだろう。

手伝いの目的のひとつに、「相手を助ける」というものはあると思う。誰かと一緒に何かをする、共同生活する上で相手を助ける気持ちを持つ、そういう経験を積むのも目的だろうと思う。

ただ個人的に子どもには。まず自分のことを自分でできる力をつけて欲しいかなぁと思う。他人のために何かをできるって素晴らしいけれども、まずは自分で生活する力をつける方が先なんじゃなかろうか。

生活するためにはこういうことができた方が良くて、そのやり方はこうで。それを「お手伝い」という形で少しずつ身に着けていく。「相手の役にたつかどうか」じゃなくて「自分の力で生きていくため」の手伝い。

世間的にそれは「手伝い」と呼ばないのかもしれない。でも自分のことを自分でできる人が増えれば、結果的に助かる人は増えるというか。自分のために生きられる時間が増えるんじゃなかろうか。自分に力がつけば、「相手が助かること」もしやすいだろうしね。


とりあえず手伝いを探していた息子には、「自分で爪切りしてみる?」と言って、本人も乗り気だったのでやってもらった。そちらに真剣になっていたので、最終的に宿題項目の「おてつだい」について話すことはなく。宿題的にどうなったのかはわからない。

ただまぁ、息子的に「自分で自分の爪を切る」一歩は踏み出せたわけで。これからも我が家は、そういう形で「おてつだい」を使っていくのかもしれない。



ではまた明日。