小説 空気 17 七夕 (完)

私は寝そべりながら国語のノートを開いて、ぽけっとから鉛筆を取り出した。

授業で「七夕」についての詩を書いた。
授業時間内に終わらなかった人は宿題になった。
私は詩を何個か書いたが、どれも気に入らなかった。きっと屋根の上で考えた方が、良い言葉が思いつくような気がした。だから宿題にした。

夏の夜明け前の屋根瓦の上は、少しだけひんやりして気持ちがいい。
先程まで光っていた星も、薄くなっていく。
そこかしこから小鳥の声が聞こえ始めた。

お兄ちゃんと最後に会った日から10日ほど経った。もうお兄ちゃんはきっと来ない。でも、他のお友達が眠らされていたらどうしよう。私はどう言えばよかったのだろう。
この問いをお母さんに話してみてもいいかもしれないと思い始めた。それは、昨日の夜、ニュースを見ていたらお母さんがこう言ったから。
「良子の言うことも分かるよ。弱かったのよ私。強くならないと。大人がね。」
 
ノートの向こうに、カラスが見えた。カアカアちゃんがこちらを見ている。最近、妙に警戒している。雛がいるのだろうか。カアちゃんを頑張ってるみたいだ。

お母さんが起きて、洗濯機を回したような物音が屋根の下から聞こえてきた。
屋根にいるところを見つかると叱られるので、もうすぐ屋根から降りないと。洗濯物を干しに、外に出てくるから見つかってしまう。

星の消えてしまった、明るくなりかけた空を見ながら、急いで七夕の詩を考えた。しかし、何も思い浮かびそうにない。

お母さんはご飯の支度を始めたようだ。水の音、鍋や食器の音や包丁の音が聞こえてきた。洗濯物を干すのは朝食作りが終わってからなはず。詩をゆっくり考えても良さそうだ。そう思ってのんびりしていると、急にお母さんが家から出てきて、洗濯竿を雑巾で拭き始めた。

私は隠れる事もできず、瓦になったような気持ちで動かないでいた。休日の朝から叱られたくない。しかし無理な話で、やはり叱られてしまった。
「良子!何してんの!」
「あ、あの、宿題。」
「いい加減にしなさいよ。」
「でも、屋根でやった方がいい宿題なんだ。七夕の詩を作るんだもん。」
「ああ、そう。でもすぐに降りなさい。危ない。」
「はい。もうすぐ降りるよ。」
危なくないよ。気をつけているもの。

洗濯機の音が止まったようだが、お母さんはお家に入って、また料理をごとごとと始めた。私はもう少し屋根にいられるのかと思いきや、やはり、もう降りないといけないようだ。お母さんが、濡れた洗濯物をカゴに入れる音がする。

仕方なくノートを小窓に放り込んだ。

屋根の軒下を、猫の白ちゃんが子猫を咥えて、移動していくのが見えた。庭木や庭石の脇の隙間をすり抜けて、今は物置になっている防空壕の方へ見えなくなった。子猫の隠し場所を変えるようだ。白ちゃんは賢い。

白ちゃんを目で追いかけていたらお母さんが庭へ出てきてしまった。また叱られる。もう諦めよう。
お母さんは洗濯を干し始めた手を止めないでやはり叫んだ。
「良子、早く降りな!」
「うん。今降りる。」

お母さんはどんどん洗濯物を干していく。
洗濯物の大部分を占める布のおむつが、洗濯ハンガーや蛸足のハンガーにどんどん吊るされていく。
そして、それらが風に靡いて揺れている。

洗濯物の籠が空になると、籠を抱いたお母さんがため息をついてからまた叫んだ。
「あのさ、どうして降りないんだ!」
「あのね、いい絵だったの。洗濯物が揺れてて、白ちゃんが子猫を咥えて歩いていて、カラスも今頑張ってるみたい。いい絵だなと思ったの。」
「何を言ってるの?」
「えーと、今思ったこと。」
「え?まあ、そうね。そこから見た景色も面白そうね。そこから見たら、お母さんは毎日七夕してるように見えた?」
お母さんの眉毛がピクリと動いた。お母さんが投げた像を思い浮かべた。
「え、ああ。うん。そうだね。そうか。ありがとう!いい詩になりそう。」
「はははは。早く降りろ!」
「はーい。」
お母さんは笑顔だった。

小窓に上半身を突っ込み、ノートを掴んでまた屋根に降りた。
瓦が熱くなる前に、詩を書き終えよう。
私はノートに書き始めた。

せんたくざおの七夕

一年生の妹が
お姉ちゃん七夕の飾り作ろうよと言った
するとお母さんが
うちではおしめのたんざくで
せんたくざおは毎日七夕様のようだわ
七夕様の日も晴れるといいね
私が言った
お母さんが笑った
(宿題ここまで。でもうらに続きます)

ノートのページをめくった。そしてまた書き始めた。

たんざくには何を書こう
妹たちと仲良くいられますように
おじいちゃんがおじいちゃんをゆるせますように
先生の悔しかった気持ちがいえますように
私もお母さんも強くなれますように

ここからはおむつの短冊に心の中で書くことにした。

加賀さんとずっとお友達でいられますように
お兄ちゃんがもう誰も眠らせませんように
誰もそんなもんとか言いませんように。

台所の方の窓が開く音とともに、お母さんの声が聞こえた。
「ごはんよー。」
すると、おばさんの部屋のドアが空いた。おばあちゃんの部屋のテレビの音が消えた。妹が階段を降りていくようだ。盆栽をカチカチカと切っているおじいちゃんのハサミの音が止まった。お家のあちこちからみんなが居間へ集まっていく。

私も行かなくちゃ。

お兄ちゃんに連れて行ってもらう世界も良かったのかもしれない。でも、どんなに悩んでも、自然が豊かで家族がいるこの世界が好きなんだ。
卵焼きの匂いの階段を降りながらそう思った。


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