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非合理な特殊解 5

「エマ、夜の風がとても気持ちが良いね。昼はまだまだ夏だけど、夜はちゃんと秋になってる。」
「うん。」
エマと夏子は風呂上がりにアイスティーを飲みながらリビングで過ごしていた。着替えるはずのシャツワンピースを手に丸めたまま、夏子はソファにもたれかかって夜風でカーテンが揺れている窓の方を眺めていた。あと何回カーテンが揺れたら聞いてみようか、夏子は言い出せるきっかけになりそうな事をやっと見つけて、あと3回揺れたら聞いてみようとなどと考えていた。

エマは黒い自分の携帯を見ながら、誰かへメールの返信をしているようだった。黒のネグリジェの裾まであるエマの赤茶色のカールのある髪の毛を、風が微かに揺らしていた。
「誰?」
「バイト先。」
「2時半だよ。こんな時間に?」
「うん。いつもこの時間に働いてるから。」
「あ、そうか。」

涼しい風が通り抜けた。カーテンがゆっくりとはためいた。

「エマ、写真見せて。アルバムじゃなくて、携帯の。携帯でも写真撮ったでしょう?」
「え?」
「怒ってないから。」
「知ってたの?」
「うん。シャッター音聞こえてたから。」
「そう。ごめん。どうして見たいの?」
「私じゃなくて、どうしても見たいという人がいて。」
「誰?」
「誰なのかなんて本当のことなんてわからないけど、お客さん。多分大丈夫な人。写真を渡すわけじゃないから。一瞬見せてあげるだけだから。」
「どうして?話したの?」
「うん。いけなかった?」
「いけないというか、夏子がすごく心配していた気がしたから。」
「うん。日本人には知られたくない気持ちはすごくあるよ。世間体が怖いから。どうでもいい世間体なのに、怖いと思う事が不思議なんだけど。」
「見せて大丈夫なの?」
「その人は60歳以上年上なの。それでいてとても遠い人。でもね、なぜか見ず知らずの私を大事にしようとしてくれてるの。すごく感謝はしてる。だから、詳しくはわからないけど、その人が抱えた閉塞感みたいな気持ちを癒すことができたらなって思うの。たまにその人がボソッと呟いたりするんだけど、もし違った人生があったらなって。そんな時に一緒に空想しておもしろくしてあげることくらいでしか恩返しできなくて。他に何かできないかなって思っていた時に、その人が写真見てみたいって。あの人にならいいかなって。」
「そう。携帯で撮ったのは牡丹と蜘蛛の時くらいだから、アルバム撮っていけば?浮世絵とか深海とかいいじゃない?」
「うん。ありがとう。そうする。」


夏子はアトリエの机からアルバムを持ってリビンぐへ戻ると、ソファへ腰を下ろした。窓際にいたエマも夏子の隣に座り、早く開きなよと言わんばかりに頷いた。夏子は苦笑いになりながらアルバムを開き、試しに数枚の写真を撮った。携帯の写真フォルダを開いて、撮った写真を確認した。その写真を見ながら、夏子はそれらを消したくなってきた。やはり自分の写真は見たくなかった。しかし宮本との約束だと思いとどめ、用が済んだらすぐに消そうと思った。

「その人にはね、最初に身体に絵を描くバイトしてるって話した時に、自分のことを大切にしなさい、と叱られちゃって。でも、そう言っちゃった手前、写真見てみたいって言い出せなかったみたい。しかも、その次に会った時はもう忘れてるんじゃないかなと思って、私が写真の事をあえて何も言わないでいたら、その人はしっかり覚えていたの。少しモジモジしながら、アレ見せてって。それから会う度に。お洒落な人だけど、風貌は中々渋い人なのよ。不謹慎かもしれないけど、可愛らしい人だなって思った。」

夏子は8枚くらいの写真を撮った。深海の気泡、クレマチスの蔓、レトロなバス、北斎風の波、唐壺に活けられた牡丹、巨大な蜘蛛、地蔵のような石仏、少しだけ微笑んだ天使。

「夏子、その人の写真ある?私見てみたいな。」
「無いよ。私が写真嫌いだから、撮っていい?って聞いてみた事が無いかも。」
「そうね。夏子は写真撮らしてくれないから。撮っていい?て言われても断るでしょう?」
「うん。今携帯で撮ったのだってすでに消したくなったよ。でもエマの絵を見せる約束があるから撮ったのだと思い込むことにしたよ。」

夏子はアルバムのページをめくった。そこには右へ左へ円の歪んだ観覧車があった。ほんの1、2ヶ月前の事だが、懐かしくなった。

「エマ、このアルバムの写真どうするの?」
「どうもしないよ。私の日本での思い出。」
「エマ、どこかへ行くの?」
「実はね、この家に住めなくなるの。父親がこの家を売るらしい。」
「いつ?私の部屋に来れば?広くないけど、部屋に物はベッドくらいしか無いから、他は全部使っていいよ。」
「ありがとう。でも、もう決めてるの。来年の早ければ1月、遅くとも3月辺りにママのところへ行こうと思うの。」
「そう。いつから考えてたの?」
「先月くらいから。」
「そうだったの。何かこの頃、前より描いてなさそうだなって思ってたよ。」
「うん。もう日本に住むことも無いかもしれないと思う。向こうへ行く前に夏子の部屋へ泊まりに行ってもいい?」
「うん。いいよ。いいけど、私じゃ日本にいる理由にならなかったか。」
「夏子、本当は、もっと早く行く予定だったの。でも夏子とどんな将来があるかなって考え始めたら行けなくなって。そ思ったけど、日本だとやはり難しいのかなと思うようになって来たの。夏子は一緒に来てくれる?」
「急にだから、、、。」
「いいよ無理しないで。夏子は日本が好きだよね。一緒にいてよく分かったよ。夏子は一緒に来てくれる事は無いなって。だから、私は一人で行くね。この写真は持っていくよ。日本での宝物。」
エマは微笑んだ。

エマが前に言っていたのを思い出した。
「日本の学校、ずっと大変だった。今も色々と難しいよ。」
エマと私はきっと同じ人種なんだと思った。エマも日本で生まれ育ったが、私と違うところは、これまで日本をホームと思えたことが無かったという事なのかもしれない。そうであったとしても、このアルバムがエマの日本での思い出なんて、夏子は喜べなかった。

「エマ、一緒に祭りへ行かない?今度、中野の熊野神社のお祭りがあるの。私のお友達と西新宿の町会に入れてもらってお神輿を担がせてもらうことになってるの。エマも行ってみようよ。」
「行かないよ。行く理由無いもん。」
「エマ、神様はこの際置いておこう。私の友達を紹介したいの。」
「要らない。もう決めてるから、変わらないよ。」
もう少し早く誘えば良かったのにと後悔した。

エマはまた携帯でメッセージを送り始めた。
「仕事どうかしたの?」
「まあ、そういう訳で辞めるからさ、そのやり取りしてるの。」
「そう。」
ただのバイトを辞めるメールにしては、手間や神経をかけすぎているようで不自然な気がしたが、エマの日頃のメールの少し歪な日本語文章を思い出して、普通のメールを送るときもこのように時間がかかるものなのだと納得する事にした。

夏子はアルバムを膝に置いて、黒い自分の携帯を握ったままいつの間にか眠ってしまった。エマは夏子の膝の上のアルバムを閉じて携帯と夏子のシャツワンピースと一緒にカウンターに置いた。エマは寝室のクローゼットからブランケットを一枚取り出すと、ソファの背を倒して横になった夏子の体に掛けた。

いつも電源が急に切れたように眠り込む夏子には、眠っているところを見せたことが無いなとエマは思った。
蜘蛛を描いていた時の夏子を思い出した。
「エマ、私もエマの背中に描いてもいい?緑の森とか花とか。この細い筆、大変だから。エマにも絶対味わってもらう。ははは。」
エマは吹き出しそうになりながら窓を閉めた。
そして、自分の携帯電話もカウンターへ置き、そのままキッチンへ向かい朝ごはんのスープを作り始めた。


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