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デザイナーズマンション

 草野雄太が次の住居として選んだのは、東急田園都市線の三軒茶屋駅から徒歩5分で家賃が7万5千円のデザイナーズマンションだった。新居は、周辺の家賃相場と比較すると破格の値段だ。苦労して探したかいがあったと雄太は感じている。入居当時は何となく落ち着かなかったものの、住み始めて1週間が経過した今はだんだん新しい環境にも慣れてきた。憧れだった東京での生活。愛知にある支社でIT関連の営業をしていた雄太は、急遽東京本社へ異動となり、新天地での営業を任されることになった。願ってもいなかった東京での生活。クロスレシデンス三軒茶屋というその物件は、これまで地方都市の、築30年ほどにもなる古い物件にしか住んだことのなかった雄太にとっては、高級感のあふれる、おしゃれで快適な住まいだった。
 自身の営業成績も波に乗ってきたころ、雄太には気になることがあった。新しい環境での仕事の疲れがたまったせいか、夜になると耳鳴りが聞こえるようになってきた。そしてその音は、よくよく聞くと小さな子供の泣き声のような音がするのだ。雄太の住むデザイナーズマンションは、基本的に一人暮らしの若者を想定している、1Kの物件で、家族連れが済むにはあまりにも狭すぎた。そのため、不自然な子供の泣き声に雄太は気味悪く思ったのだ。病院に行っても特に異常は確認されず、医者からは少し様子を見てみましょうと言われたのみだった。しかし、いつまでたっても耳鳴りの症状はよくならないばかりか、悪くなる一方だった。
 ある日、雄太は眠りにつこうとしてベットの中に入ると、また子供の泣き声がする。まただ、と雄太は思ったが、聞こえないふりをしてそっと目をつぶった。すると、彼の耳元で「なんで無視するの?」という声がするのが、はっきりと聞き取れた。驚いて目を開き、あたりを見回しても、もちろん誰も部屋にはいない。「なんで僕は生きてはいけないの?」再び聞こえたそのか細い声は、いまにも消え入りそうだ。その時、雄太は気づいた。これは耳鳴りではないのではないか?まさか。気づいたときには雄太はスマートフォンを手にしていた。
 クロスレシデンス三軒茶屋。都内の事故物件について語るこのサイトによると、このマンションでは、3年前とある事件が発生していたらしい。当時、この部屋には一人の女性が住んでいた。彼女は交際していた男性との間に子供を授かり、非常に喜んだらしい。しかし、その男性は子供を認知しようとしなかった。結婚まで考えていた彼にそのような仕打ちを受け、彼女はひどく傷ついた。この世界に絶望した彼女は、このマンションのベランダから飛び降り、24年というあまりにも短い一生に自ら終止符を打ったのだという。この物件が家賃相場に比べて異常に安かったのは、このような事件があったためだったのだ。この世に未練しかないその子供は、死んでも死にきれず、その魂は人知れずこの部屋で成長を続けていったのだろう。雄太の心に戦慄が走る。
 ホームページ上の情報を一通り読み終えると、また何やら声が聞こえる。「私の子供はどこ?」子供を探す母親の声だ。「ねぇ、私の子供はどこ?」雄太は怖くなり、「あなたの子供は、すぐそこにいるよ!ここで生きていきたいと強く願っているんだよ!聞こえるだろ!」と叫んだ。しかし、どんなに大声で叫んでも、雄太の声は届かなかった。母親は繰り返す。
「私の子供はどこ?ねぇ、私の子供はどこ?聞こえる?私の子供はどこにいるの?」
 現代の科学では説明できない現象に遭遇し、雄太は錯乱した。そして意味不明の、言葉にもなっていない声を発しながら、ベランダに向かって全力疾走した。その勢いのまま、雄太はベランダから飛び立ち、断末魔の叫びが地上に轟いた。その数秒後、マンションの下の方でアスファルトに物体が衝突したときの鈍い音がそれに続いた。
 この一件で有名になったこの物件は、その後だれも住みつかなくなったという。

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