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私の心の中の猛獣

 私は夜しかこの家の外に出ることはない。この美しい世界で、昼間の人が多く出歩く時間帯に私が行動することなど、決して許されない。人々が寝静まった夜の、活動の波がおさまり凪のように変化に乏しい夜中の空気が僕は好きだ。日の当たらない人生を歩んできたと自負のある僕にとって、夜の空気は僕の体にぴったりとなじんだ。
 毎日決まって歩く散歩道を、今日も歩く。多摩川沿いのこの道路は、大型トラックがたまに通るくらいで、人通りの少ない道だ。私の存在など夜の闇に溶けて、もはやこの世界のだれからも認知されていない状態だろう。今この瞬間、僕のことを考えている人間など、きっと親以外は皆無に違いない。その親にしてみたって、30にもなって定職にもつけずに1日1日を浪費し、親のすねをかじり続けている自分の存在を疎ましく思っている。街灯が頼りなく照らすこの道を、僕はただただ目的もなく歩き続ける。
 しばらく歩くと、前方から何人かの人影が見えた。何やら楽しげな声が聞こえる。どうやら家族のようだ。母親と父親と小学生ぐらいと思われる女の子と男の子の4人家族が、こちらに向かって歩いてくる。父親は何やら大きな袋を手にしている。よく目を凝らしてみると、それは花火の道具のようだった。きっと、川の河川敷で家族で花火を楽しんだのだろう。子供たちが興奮気味に両親に花火のすばらしさを伝えようとしている。暗闇でよく見えなかったが、きっと両親はこの子供たちの興奮ぶりを見て、さぞご満悦だったことだろう。私の耳から彼らの声が遠ざかっていく。
 あぁ、またか。僕は心がざわつき始めるのを感じた。心の中の猛獣が、むくむくと起きだしたことを感じた。たちまちそれは傍若無人に暴れだし、私はそれが生み出す心の衝動を抑えることができない。私は昼の明るい時間帯に、人様の前に出ることなど、決してできないといった。それはこの邪悪で醜い猛獣は、昼の生き生きとした表情で人生を謳歌している人々を見ると、だれも止めることができないほどの暴動を引き起こすからだ。過去にはこの忌まわしい生物の仕業で破壊の衝動にかられ、野良猫たちに殺鼠剤を食べさせ、苦しみもだえるさまを笑いをこらえながら見ていたことがある。ふと我に返った瞬間、僕はその自分の狂気性に戦慄した。自分自身が分からないと僕は思った。そのときから僕は心の平穏を保つため、なるべく刺激のない夜の時間帯を自分の生きる時間帯として設定した。
 私の心の中で、その邪悪な生物はその存在感を増し、完全に私の心を支配し始めた。そうなると私は完全に理性というブレーキで行動を制御することができなくなる。ある計画が私の心の中に浮かぶ。その場で少し立ち止まると、思い返したように私はこの道を引き返した。
 彼らの自宅に着くまで、ずっと楽しそうな会話がその家族間で繰り広げられた。これが悲劇の始まりなんて、知る由もない。私がその家族を尾行した結果、彼らは多摩川周辺の閑静な住宅街に建てられた一軒家に入っていった。立派な家だった。でも計画を実行するうえでは、立派であればあるほど好都合だ。
 私が彼らの家の周辺を20周ほどした際、ついに彼らの家の電気が消えたことを確認した。機会をうかがっていた私は、さあ一仕事を始めようか、と小さくつぶやく。
 私はたばこ用に常備しているライターで、その家の玄関前のドアに火をつける。火は暗闇の中でひときわ美しく、神々しい光を放った。そして、めらめらと音を立て、その家のドアに引火した。さあ悲劇の始まりだ。私は心の中で叫んだ。そして、私の心の中に住むその邪悪な生物も、地面を揺らすような低い鳴き声を上げた。だんだんと大きくなる炎は、きっと家族が見ていた花火よりもきれいだっただろうと私は思った。

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