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見届け人

 高橋哲郎は、今日もまた東北地方のとある森林に来ていた。哲郎の周囲にそびえたつ大木のせいで、夏の気配も感じさせる6月の強い日差しは、地表に到達することができない。森林の内部は冷たい空気で満たされ、その冷たさはどこか死を連想させた。ところどころに人が首をつって死ぬのに適切と思われる、適度な高さの木がある。このような状況が重なり、厭世観で心が充溢してしまった人々は、この場所を自分の最期の場所として選択するのだろう。

 哲郎はこの森林の奥へ進んでいく。さっそく哲郎の前方の木の後ろで、何かが動くような影が見えた気がした。哲郎がゆっくりとその木に近づいていくと、そこには30代前半と思われる男性が、遠くを見つめながら木にもたれかかかって座っている姿が見えた。

 二人は目が合った。その男は気まずそうに目線をそらす。哲郎は、ゆっくりとその男のもとに近づく。男が特段哲郎の接近に反応を示さないことを確認して、彼はおもむろにその男の隣に胡坐をかいて座った。
「なんか疲れちゃいますよね。いろいろと。」
 哲郎の問いかけに、男は何も答えない。ただうつむき、地面を見つめている。
「私が楽にしてあげましょうか?」
 哲郎の提案に、男はわずかに顔を哲郎のほうに向けた。哲郎は首を絞めるのに十分なほどの太さのロープをリュックからおもむろに取り出す。ロープを見て、男は明らかに動揺している様子が見て取れた。手足は小刻みに震え、視線がせわしなく動いている。こうして死が身近に迫っていることを感じると、多くの人はその危険から逃れようとする本能が働くのだろう。
「このロープで首の頸動脈を止めてしまえば、すぐですよ。」
 哲郎の感情のない冷徹な声が森林に響いた。男はどうすればいいのかわからずにいる。沈黙が続き、遠くのほうで鳴き続ける鳥の声がやけに存在感を増している。
「とりあえず、このロープを首にかけてみましょうか?嫌だと思ったら言ってください。」
 なかば強引に哲郎はその男の首にロープをかけた。男は首にかかったロープを両手でつかんだ。哲郎が少しロープを引くと、引いた分だけ男の首が閉まり、男は反射的にロープをつかんでいる手に力が入り、何とか首が閉まらないようにする。そのやり取りを何度か繰り返したのち、哲郎は男の首からロープを外した。男は首に添えていた手を下げてうつむき、嗚咽とともに地面を涙で濡らした。
「やっぱり生きたんじゃないんですか?この世界に、やり残したことがあるんじゃないんですか?」
 哲郎は優しい声で男に問いかけた。嗚咽はさらに大きくなり、男は恥も忘れて泣きじゃくっていた。

 哲郎はその男の状態が落ち着くまで、その大木の根本に座り、彼の様子を見守っていた。出会ってからもう1時間ほどたっただろうか。男はおもむろに立ち上がる。
「ありがとうございます。なんだか、死のうと思っていた自分がばかばかしくなってきました。やっぱりこの世界に未練があるんだと思います。そのことに気づかせてくださり、本当にありがとうございます。」
 その男の顔には、どこか晴れやかな表情が浮かんでいた。
「それがいいですよ。」
 哲郎も彼の言葉に精いっぱいの笑みで答える。その男は、深々とお辞儀をすると、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って。」
 男は不思議そうな顔をして哲郎のいるほうを向いた。
「あそこにあるきれいな山を見てごらん。」
 哲郎は男の背後にそびえたつ山々を指さすと、男は振り返ってその景色を見つめた。すると哲郎は、先ほどのロープを使って渾身の力でもって男の首をしめた。みるみるうちに男の顔が青く変色していき、意識が遠のいていく。そして最終的にロープを首から外そうと力を込めた両手の力も完全に脱力し、男はその場に倒れこんだ。その姿を見て、哲郎は満足そうな笑みを一人浮かべた。
 希望からの絶望への落差を感じながら人の命を奪うことに、哲郎は快感を覚えていた。これは一種のショーだと彼は思う。どんな素晴らしい演劇も、自分で生み出したこのショーには及ばない。哲郎は青ざめた顔であっけなく死亡した男を見て、高らかな笑い声をあげた。その残虐性に満ちた声は森林中を駆け巡り、今日も冷酷に響き渡っている。

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