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絵本日記DAY22「なめとこ山の熊」/登場人物の眼、について

あけましておめでとうございます。鬼のようにゴリゴリと絵本日記を更新する、というコンセプトのこのマガジンも、3年目に突入しました。未だ、鬼は現われておりません。どうせ来てくれるのなら鬼よりも福の神のほうがもちろんいいのだけど、今年は(こそ)、心を鬼にしてたくさん更新してまいります。と、ここに誓って2022年の絵本日記をはじめたいと思います。


1、宮沢賢治と猟師について

今日の絵本は、宮沢賢治作「なめとこ山の熊」です。岩手県民として、宮沢賢治の話を知らないのは恥ずべきことだ、しかしいかんせん旧書体も多く読むまでに気合がいる・・・という県民はわたしだけではない気がします。

でもありがたいことに、絵本は、すっと宮沢賢治の世界に誘ってくれるのです。こんなに長くくわしく絵本にかかわっているわたしに、ときどき「絵本のどこがそんなに好き?」とたずねてくる人がいます。その返答はじぶんでも浅いような気がしてしまうけれど、でも今のところ、その答えはひとつであり、すべてです。

「絵本は、読みやすいから」。

もちろんこの場合の易い、は、easyとはすこしちがうのですが。

扉をひらくだけで、うつくしい世界どこへでも、山でも海でもパリでもロンドンでも、畑に忍びこむいたずら好きな兎の世界でも、自由に歩き廻ることができるのです。そして絵本にはご存知のとおり文字がすくない。ふるいにかけられて、厳選された、ごくわずかなきらきらのことば。画家が描いた絵と、ていねいに書かれた詩を同時にあじわうことができる。ね、とっても贅沢だと思いませんか。


それで、話を今日の絵本にもどします。この絵本は、実際にハンターとして活動をされている方から、不意のプレゼントとしてもらいました。ハンターさんって、日常的に人のこころも撃ち落とすのがとくいなのでしょうか?

宮沢賢治については、名だたる分析やファンの方々の書籍も多いし、わたしがあれこれ述べるまでもないとはおもうのですが、やはり、素晴らしいです。このひとの言葉は、音楽。とくに、星の表現、とらえた景色を賢治の好きな石にたとえるところ。それでいて急に「僕」「私」と賢治のつよく熱い私情が顔をだす文章に、胸を打たれるのです。

話の大筋については、扉のページにも一部書いてありますが、猟師である主人公の小十郎のこのことばが、すべてです。

「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぇならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれなよ。」

読んでのとおり、小十郎は生きるため、養っている家族のために、熊を殺します。でも、小十郎もにんげんです。こころがあります。そして熊にも、こころがあります。それが、かなしいのです。

熊を殺すことにより生きてきた小十郎は、さいご、熊に殺されます。走馬灯が駆けめぐるなか、小十郎が最後に思ったひとことは、

「熊ども、ゆるせよ」。

宮沢賢治はよく登山をしていたといいます。わたしも、ときどき山に遊びにいきます。だからこそ、もうすでに周知のことだけれど、宮沢賢治は、とてもとても、山を愛していたのだということが、文章からわかります。自然への愛と畏怖がなければ、やはりこういう文はかけない。人と自然、動物との共存、賢治の熱い眼をとおして書かれる物語、ほかにも読んでみたい、と素直におもいました。

2、あべ弘士さんとさまざまな眼、について

この絵本の絵は、旭川動物園で飼育員さんをされていたという、いわば動物をみるプロ、あべ弘士さんが描いています。あべ弘士さんの描く動物で好きなのは、媚びていないこと。それは、絵本の大半の読者である子どもに対して、そして動物そのものに対して。熊は、熊として描いている。それは本来、子どもが怖がらないように可愛らしくキャラクター化して描くことも、見栄えのために派手に描くことも、わたしは必要ないと思っています。だって、人間にとって熊は怖いのです。熊のほうだって、人間には会いたくないのです。生きるか死ぬかの世界に、なまぬるい甘さはいらない。

この絵本にについて述べたい視点は多々ありますが、この記事ではあべさんの描く「眼」について書きたいと思います。

・まずは、淵沢小十郎という男の描写。奥まったちいさな眼には、炎が灯っている。だけれども、この男はすでに何かを悟っているような。猟師でありながら、欲があるようで、欲がないというような。獲物を仕留めるときの小十郎の眼も、ふだんの眼と、おなじです。落ち着きはらっている。

ただ、物語のクライマックスで、おおきな熊と対峙する、見開きの一ページがある。このページの小十郎の眼だけは、ちがいます。線もクレヨンの赤で書かれている。見開きのページに左は小十郎、右は熊。この両者の眼をみれば、どちらが優勢なのかは、だれの目にも明らかです。

それから、物語がすすんでいくなかで現れるいくつもの眼。

・小十郎に撃たれる熊の、あきらめの悪い目つき。

そのあとの、熊の処理(賢治はここの描写を「それからあとの景色は僕は大きらいだ」とかいています。ベジタリアンだったのもうなずけるし、わたしもとくいではない)をして”自分もぐんなりした風で”谷を下っていく小十郎をみている、みみずくの赤い眼。”血で毛がぼとぼとになった”熊の毛皮との対比、ぐったりした小十郎、命のやりとり。真赤な夕陽に染まった野原は、不気味な紫色です。

・やり残したことがあるから、あと二年、殺すのを待ってくれ、という熊の悟った眼。そして小十郎がうしろからどん、と撃たないことも、小十郎のほうも自分には撃てないだろうということも、わかっている。

・小十郎が街に降りていき、毛皮を買ってくれ、なんぼ安くてもいい、と懇願するのを、キセルをふかしながらきいている、旦那の眼。賢治は、「僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない」と書いている。

・小十郎が湧き水をのもうと下った先で出会った、熊の親子。母熊が小熊をやさしく見おろす眼、小熊の母熊を見あげるあまえた眼。それを木に隠れてじっと見つめる小十郎は、この男はほんとうに猟師なんだろうか、今まで何頭もの命を殺めてきた男なんだろうか、と思わずにいられません。そしてこのときの熊の親子の会話は、もう、賢治そのもので、このひとにしか書けない。


賢治の世界観、あべさんの動物への思い。作者と画家というふたりの人間の境目が限りなくぼんやりと曖昧になる絵本こそ、いい絵本なのではないか、という仮説がわたしの中でうまれました。

宮沢賢治の物語を描いた絵本は数知れずあれど、やはりあべさんがこの物語を描くのは最強なのでは、と思わずにはいられない作品でした。


ミキハウスの宮沢賢治の絵本シリーズ なめとこ山の熊 

作/宮沢賢治 絵/あべ弘士 初版第1刷 2007年10月17日




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