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絵本考察日記#06/谷川俊太郎さんがつむぐ「生きる」

こんにちは。皆さまお盆休みいかがお過ごしですか。
わたしはというと、今年も91歳になる祖母と父と弟と迎え火をし、線香花火をしました。母は家で天ぷらを揚げていました。ぱちぱちと鳴るそのちいさな光を、耳のおおきかったおじいちゃんはきっとにこにこしながら見てくれたはず。いささかこどもじみている、とおもいながらも、来年もおばあちゃんと線香花火ができますようにと至極真剣に、お願いしました。
小雨が迎え火用のよく燃える木(正式名称知らず)を濡らしましたが、わたしは左手でおばあちゃんに傘をさし、右手で線香花火に火をつけて手渡しました。おばあちゃんは門の前でお風呂用の椅子に座って、二本ともさいごまで火の玉を落とさずに線香花火をしていました。だからきっと、わたしのお願いごとはだいじょうぶ。

7月末、8月上旬と相次いで、わたしのたいせつなひとたちの、だいすきだったはずのおばあちゃまが旅立ちました。彼らのおばあちゃんを想うきもちを思い浮かべるたび、彼の家の近くをとおるたび、心は痛みました。Kくんは一人暮らしのアパートを引き払い、祖父母と同居していました。そのうちのどちらもを見送ることになり、いまあの立派な家でひとりになった彼の丸まった背中を想うと、どうにも涙がとまりませんでした。いっぽう、パートナーのCくんは、まさにその訃報がご家族から入ったとき、一緒にいました。朝の、7時くらいのことだったと思います。
あとづけかもしれないけれど、ふしぎなことに、わたしは朝方夢をみていました。
彼と電車にのって、左側はまっさおな海。目的地ではなかったのですが、駅の看板をみて、わたしは「津軽だってー。ここで降りちゃおうか!」と言いました。彼のおばあちゃまは、弘前に住んでいました。暑がりと寒がりがおなじ部屋で寝ると当然エアコンの設定温度を巡って無言論争が勃発します。寝苦しい夜明けでした。
彼はぽつりと、「ばあちゃんが亡くなりました」と、いいました。いつにも増して、彼の背中はまんまるの熊みたいでした。彼は泣いてはいなかったけど、わたしにはその背中をさすることしかできなかった。

それで、今回ご紹介する絵本のはなしをします。
この絵本は、9月上旬にいのちについてかんがえる、映画を上映する前に、絵本をよんでほしいというご依頼に合わせて選びました。
正直にはっきり言いますと、わたしはメッセージ性をもって絵本えらびすることがすきではありません。うらがえすと、この絵本は泣けます、とか、お片付けするようになります、というようなキャッチコピーはきけんということ。
絵本からのメッセージは、よんだそのひとにしか、受け取れないものだからです。ましてや、軽々しく、この絵本はいのちについて考えさせられます、ということばはとてもじゃないけどわたしは言えないし、言いたくないのです。

ではなぜこの絵本を選ぶことにしたかと言いますと、谷川俊太郎さんの詩が、削がれた、これほどまでの優しさとうつくしさはかえって乱暴になってしまうのではないかというくらい、「生きる」ことを言い得ているのではないかと、わたしは感じたからです。
そこに、岡本よしろうさんが絵を添えられています。
最初、わたしはこの詩にどんな絵がつくのだろうと、もっと宇宙的な、答えのない抽象画のような水彩画をイメージしました。ところが、見せてもらった絵本はとんと違いました。団地の一室で暮らす、とある家族や、街の人々の瞬間を描いたものだったのです。

つまりいのち、とか、いきる、とか、そういう巨大で薄いガラス玉のようなテーマについて思い浮かべるとき、どうもその表現方法も曖昧なものになりがちなのではなかろうかとわたしなどは考えてしまうのですが、でもこの絵本は、日常そのものが表現されていました。だって、いきるって、そういうことなのです。営みそのもの、いまごはんをたべること、いま目の前のひとに心からばかやろう!!と怒ったり、いま目の前ですやすや眠る赤ちゃんのつるんとした唇を愛おしいと思ったり、そういうことなのです。

この絵本を選んだ理由の一つには、先日敬愛する絵本編集者のかたがおしえてくれた一冊、ということももちろんありますが、ここ最近で周りのだいじなひとたちの死に触れ、この詩が今目の前にもどってきた、という感があります。
それから選書をする意見のひとつとして、絵本は対象年齢というものがあるでしょう、と仰るかたももちろんいると思います。わたしはその意見に反対でもないし、現に3歳児にそぐわない絵本を適当に選んでしまい、もれなくクラス全員の瞳から「?」「?」をもらったこともあります。
だけれども、この詩及び絵の融合は、やはり絵本というものとして、見事だと思います。9月のその日、もしぽかんとしているちいさなこどもがいたとしても、彼らの細胞ひとつひとつは、わたしの読むことばを聴いています。たとえ椅子に座っていなくても、彼らは目で耳で全身で、聴いているのです。
それはこの詩のことばたちを理解してもしなくても、栄養分になって、いつかふとした、全く別の「生きる」瞬間に、よみがえったり、はたまた一生よみがえらなかったりするわけなのです。そこに期待をすることは浅はかなおとながすることですから、わたしにできることは、ただまっすぐにこの詩を読み上げること、こどものそばにいるおとなは、こどものそばにただ居てくれることだけで、良いと思っています。

この絵本の帯には、【そこで何が起こっていても、誰が何をしていても、その短い時間の中に<永遠>をはらんでいる】と谷川俊太郎さんのことばが寄せられていました。生死観とは、常に逆説的で不安定で儚いものであるとおもうから、そっとだいじにこの絵本を、本棚の一冊にしておきたいと、そう思うのでした。駆け足でかんたな日記ではありましたが、さいごに映画の上映会や、そこであかるく開かれるマルシェや、かかわるひとたち、来てくださったかたみなさんが秋のきんいろの<瞬間>を過ごせるよう願っています。



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