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絵本日記DAY29『宮沢賢治 雪わたり』/こんなおもしろい日がまたとあるでしょうか

みなさまこんにちは。師もばたばたと走る12月、いかがお過ごしでしょうか。
私はこの年の瀬に、引っ越しをしました。主宰している「絵本研究室」のアトリエ兼手がけているZINEの編集部アジトとして使えるように。
いずれ、とはぼんやり思っていましたが、先月の新月あたりからするすると事が動きました。
そしてこの部屋をお借りした日とほぼおなじくらい、なにもここまでぴったりじゃなくても、というくらいのタイミングでどかっと雪が降りました。20センチくらいかな。そんなに新しくはない部屋なので、水抜きはなななんと手動。床下をぱかっと開けるタイプの。こういう類の床は下からヒュウヒュウ風が吹き上げてきて、なにかでてきそうでこわいなぁ、なんて子どもじみた想像をつい毎晩してしまいます。

さて、今日の日中もマイナス気温、街ぜんたいが凍っているかのような朝ですが、やはり冬の景色は美しいです。このあたりは寺町でふるくて黒いお寺の屋根に雪が積もっているのはどこか厳かだし、岩手山はやはり雪化粧をしている姿がいちばん美しい。
いくつになっても、だれも歩いていないふかふかの雪道に足跡をつけるのは嬉しい。

そういうわけで、今日の絵本日記は賢治さんの『雪わたり』について綴りたいとおもいます。想像のなかの景色はひんやり、でも足元はぬくぬくにして、どうぞ最後までお付き合いくださいね。

1、そもそも、「雪わたり」とは

「雪わたり」という動詞。これは、辞書をひいても出てこないんですね。どうやら賢治語らしい。
絵本のなかの一節を引用します。

こんなおもしろい日が、またとあるでしょうか。
いつもは歩けないきびの畑の中でも、すすきでいっぱいだった野原の上でも、すきな方へどこまででも行けるのです。
平らなことはまるで一まいの板です。そしてそれがたくさんの小さな小さなかかがみのようにキラキラキラキラ光るのです。
本文6頁より

ああ、うっとりしてしまいますねぇ。この物語の主人公は、四郎とかん子の兄妹で、この幼い二人が雪の中に遊びに出かけていきます。賢治さんと妹がモデルなのでしょうか。

ところでみなさんは、まっさらな雪原を目の前にしたことがありますか。
途方もない銀世界にただただぼうっと立ち尽くし、そしてそれから、大胆に飛びこむ。
あのときの高揚感というか興奮は、雪でしか味わえないものとおもいます。
その上、自由があります。「いつもは歩けない」ところをずんずんずんずん、歩くことができるのです。防寒具もしっかり身につけていますから、少しもさむくない、むしろ暑いくらい。もう、無敵パワーです。
それを「こんなおもしろい日がまたとあるでしょうか」と言い充てる賢治さん、さすが岩手育ちよなぁと賞賛するほかありません。

この絵本のタイトルは、『雪あるき』ではありません。この兄妹が節のついた歌をうたいながら勇みたのしむ物語を読めば、雪は「あるく」ものではないことが、頭ではなく身体ぜんたいで、理解することができるはずです。

2、冬の景色の描写について

先ほどもちらと述べましたが、やはりこのひとに雪景色を表現させたら、まず右に出る人はいないだろうと私はおもいます。あれこれ語ることはひかえ、いくつか引用させていただきます。

お日さまがまっ白に燃えてユリのにおいをまきちらし、また雪をぎらぎらてらしました。
木なんか、みんなザラメをかけたように霜でぴかぴかしています。
林の中の雪には藍色の木のかげがいちめん網になって落ちて、日光のあたる所には銀のユリがさいたように見えました。

「今夜は美しい天気です。お月さまはまるで真珠のおさらです。お星さまは野原の露がキラキラかたまったようです。さてただいまから幻燈会をやります。みなさんはまたたきやくしゃみをしないで、目をまんまろに開いて見ていてください。」

声にだして朗読なんかしてみましたら、すーっと頭の熱がひいて、まるで浄化されそうなほどの文章です。

3、賢治さんおとくいの

この物語は二部構成です。一部は、昼間たのしげに雪をわたっていた四郎とかん子が一匹のきつねに出くわし、「幻燈会」なるものに招待される、というストーリー。そして第二部は夜。この幻燈会でのきつねたちと人間の子どもの交流が描かれています。
賢治さんらしいなぁと思うポイントを挙げます。
◎狐は世間一般に、人間をだまくらかす悪いやつだという評判がついている。それでこのきつねの学校では、
「今夜みなさんは深く心にとめなければならないことがあります。それはきつねのこしらえたものを、かしこいすこしもよわない人間のお子さんが食べてくだすったという事です。そこでみなさんはこれからも、おとなになっても、うそをつかず人をそねまず、わたしどもきつねの今までの評判をすっかりなくしてしまうだろうと思います。閉会の辞です。」とのお言葉が。
生きとし生けるものを尊ぶ賢治さんの思想、教育者でもあった彼の想いをきつねの紺三郎がこのように伝えています。

◎物語の中に、賢治さんって実はユーモアがわかる人だったのかしらん、と思われるシーンがぽろぽろ。それとも本人は大真面目なのかもしれない。こういう堅物タイプのひとって、笑わせようとしてくれているのかそのつもりがないのか、ちょっと見極めが難しいところ。そのまっすぐさにときめくのだけれどね。
きつね先生の演説を聞いて拍手かっさい、涙涙のきつねの生徒たち。
四郎とかん子のポッケは、どんぐりやら光る石やらでいっぱいです。
そしてこの「幻燈会」なる素敵なネーミングの会、今でいうところのスライドショーなのです。しかも歌も入っていますから、ミュージカル調ときています。この時代の花巻にも、こういう芝居小屋みたいのがあったのかしら。なんだか、思っているよりすすんでる催しに、ちょっと面食らったのでした。

4、おしまいに

雪には、ふしぎなちからが宿っている気がします。
子どもの頃の雪遊びの体験は、何にも変え難い輝きとなって、いまも私の胸の奥底にある。それがおとなになった今でも、こうして雪がどっさり降った朝には、わあ、と顔をのぞかせるのです。
もちろんもうおとななので、雪だ雪だ〜!とおもてに飛び出したりなんぞできませんが、下校中軒下のつららめがけて雪玉を投げているランドセルボーイ&ガールを見るにつけ、心のなかではニヤリ笑いをしてしまう。
この前お店にいるとき、ガラス窓の向こうにお母さんと男の子、3歳くらいかな、が雪遊びのフル装備をして通ったのをみた。
そして三十分くらい経って、男の子が、まるで道路中にラッパでも鳴り響いているかのようだった、もう、それはそれは勇ましい顔でお母さんと手を繋いで戻ってきたのがみえた。
あの、男の子の満ちたりた顔といったら。きっと、心ゆくまでたっぷり、雪を味わってきたのでしょう。子どもが遊んでまんぞくしたときって、ああいう顔をするのか、とこちらまで充足感をおぼえたのでした。

いつの時代もいくつになっても。雪のない地域にお住まいのかたも、雪にうんざりしかけているかたも。この記事を最後まで読んでくださったあなたが、この冬を愛おしく過ごせますように。それではまた。

『雪わたり』宮沢賢治/堀内誠一画
1969年12月20日 初版発行 福音館書店

追記:この素敵な絵本を貸してくれた友人とそのご家族に感謝。扉をあけたら、筆文字で「結婚記念」の文字がでてきてびっくり。もっと素敵。寒い寒い景色を描いたはずの絵本の温度があがったよ、ありがとう。

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