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「懐疑心と猜疑心」アフリカ大陸縦断の旅〜ケニア編⑤〜

 2018年8月28日午前4時半頃、私たちはバスの運転手が呼んでくれたタクシーに乗って、NEW KENYA LODGEを目指していました。このタクシー運転手を信用して良いのか、という疑いはありましたが、私たちは無事宿に送り届けられました。長く険しかった移動のゴールはすぐそこ。私たちはNEW KENYA LODGEの門を開くはずでした。しかし、階段を上がった先、チェックインカウンターの手前の扉は、まさかの施錠。私たちはまだ薄暗いナイロビの街で、いつ起きてくるか分からない誰かを、身を縮めて待つ他ありませんでした。

 階段の隅でチェックインカウンターと時計を交互に見ながら、漠然としたナイロビの恐怖に煽られていた私たち。無言のまま数十分が経過した頃、遠くから足音が聞こえてきました。

「(今しかない。)」

 おそらく3人ともがそう思っていました。目の前の鉄格子を少しだけ揺さぶり、暗い建物内に響く小さな金属音。

「Excuse me ?」
「すませーん。」

 足音がこっちにやって来るように、なるべく大きな小声を出す私たち。すると、その足音はだんだんとこちらに近づて来るのが分かりました。そばに見える角を曲がって、黒人の男性がこちらにやってきました。容姿と言語から、彼はすぐに私たちを日本人観光客と認識してくれたようでした。

「びっくりしたよ。用を足すために偶然起きたんだ。君たちはラッキーだね。」

 彼はそう言って、重たい鉄格子を開けてくれました。

「よっしゃぁ。これで安心や。やっと寝れる。やっとや。」

 すぐさまチェックインを済ませ、疲れ切った体を癒すために部屋に突入。2人部屋を選んだからか割と広めで、何よりもエチオピアに比べて清潔感がありました。

「ゆっくりベッドで寝れるな。」

「ここで怒涛の移動を帳消しにしよう。」

 こうして私たちは限界を迎えていた体を、納得いくまで休ませることになりました。ようやく手に入れた安堵、疲労困憊の体。しかし、何分、何時間経っても、眠りに就くことはできませんでした。

「(なんで寝られへんねん!眠たいのに。)」

 心あたりはありました。そう、それはタクシー運転手を異常なほど疑っていたこと、鉄格子の前で待っていた際に最悪を想定していたこと。おそらくこれは今までの私にはなかった思考でした。アフリカ旅が進むにつれて、私の中で圧倒的な危機管理能力の変化が生まれていたのです。一方でこれが高まると同時に、私を取り巻く全てに対する疑心暗鬼が加速していました。この2項が見事な比例関係にあったのです。旅を通じて一気にその比例定数が上昇したという事実。善人か悪人か、真実か偽りか。当初は鮮明に写っていた景色は、旅フィルターを通して、いつの間にかぼんやりしていまいした。

 日本に住んでいた長い期間と、アフリカ旅のわずか2週間。私は他者の言動に対して、どのようなアプローチをしてきたのでしょうか。私の中にある信用と疑いの比率は、旅を通じていかに変化していきたのでしょうか。眠れずにベッドから出た私は、共同スペースでチャイを入れながら、この事象に対して向き合うことに決めました。

 これを考える前に、あくまで個人的にはなりますが、4つの言葉について定義しておかなくてはなりません。まず1つ目は「危機管理」です。これは最悪の状況を想定し、それに対して予防線を張ること。万に一つでもその最悪が起きた場合、対応できる打開策を考えること。そしてこの最悪な状況とは常に「死」であること、と定義します。
 そして2つ目は「疑心暗鬼」です。これは個人の周囲に巻き起こる事象全てに疑いの心を向けること。そして、この疑心暗鬼には「懐疑的疑心暗鬼」と「猜疑的疑心暗鬼」いう2種類存在していると考えられます。
 3つ目となる「懐疑的疑心暗鬼」とは、ある事象に対して「真実はどこにあるのか。」と注意深く考察していくこと。また、ある事情に対して、その「底」にある真の部分に手を伸ばす行為である、と定義しましょう。(以降は懐疑心とする)
 最後に4つ目となる「猜疑的疑心暗鬼」とは、ある事象に対して「偽りはどこにあるのか。」と注意深く考察していくこと。また、ある事情に対して、その「裏」にある偽りの部分に手を伸ばす行為であること。そして、この行為には「自分を陥れようとしているのではないか。」「私を使って何か企んでいるのではないか。」などのネガティブな要素が含まれてる、と定義しましょう。(以降は猜疑心とする)
 このように外側は同様の疑いであったとしても、「懐疑心」は「奥底にある真実へ」、「猜疑心」は「裏にある偽りへ」と、内側にある私自身の「危機管理」という前提条件によって絶えず変化しているのです。

 例えば、深夜に1人で街を歩いている際に、見知らぬ人から声をかけられたとします。「〇〇駅まで案内していただけませんか?」と。ここが日本であると仮定しましょう。
 まず危機管理の面において、日本はある程度の治安維持は保証されていると思います。また周囲の人の多さや街の明かり、この物質的に豊かな国で犯罪を犯すリスクと確率、携帯が使える環境であるかどうか。最悪な状況である「死」にはそれほど近しいものではないでしょう。
 次に懐疑心の面ではどうでしょうか。その人の国籍、性別、年齢、身なり、声色から様々な情報が伝達されます。なぜこの人が駅を探しているのか。終電の有無、タクシーの使用、酔っ払いかどうか。そもそも観光先で土地勘がなく、道に迷っている可能性も考えられます。そして、話ができると判断すれば、意図や真意を聞くこともできるでしょう。
 一方で、猜疑心の面ではどうでしょうか。こんな深夜では終電もない。駅で誰かと待ち合わせされて、集団で何かされるのではないか。わざわざ尊敬語で話してきたことも、こちらを油断させるためではないか。もし相手がスーツ姿なら、社会的地位を確立しているという印象を与えるためだけに、それを着ているのではないか。などという相手の裏にある偽りを疑うことも容易です。

 では、同様の状況において英語で話しかけられた場合を考えます。ここがアフリカであると仮定しましょう。
 まず危機管理の面において、情報収集の結果、日本ほどの治安が保証されているとは思えません。ましてやナイロビはアフリカ三大凶悪都市の1つと呼ばれているほどです。また、日が暮れた後の人の少なさや街の暗さ。Wi-Fiなしでは携帯電話も使えず、言語も通じるか分からない。そんな状況で助けてくれる人がいる確率は低いと見積もるべきです。どう考えても最悪の状況である「死」に近い状況。
 次に懐疑心の面ではどうでしょうか。文化や生活感を知らないので、外見を判断材料にすることは非常に危険です。もし私と同様に観光客であれば、本当に駅を探している可能性もある。そうでなければ、誰かと待ち合わせか。しかし、アフリカに住んでいない以上、共通認識として存在するであろうアフリカに住んでいるアフリカ人の環境や内情を把握できるはずがありません。懐疑心に値する想像の余地はほぼ皆無です。真実に到達するための底が深すぎるのです。
 一方で、猜疑心の面ではどうでしょうか。そもそも近くに駅があるのかどうかも分かりません。このまま誰もいない暗い場所に連れられて身ぐるみを剥がされるのではないか。現金やカード、パスポートが目的か。アジア人の観光客だからといってなめられているのか。など、相手の裏には、何層もの偽りがあるのだろうという疑いが重なります。

 上記の定義と例を踏まえて、日本の場合とアフリカの場合を比較してみましょう。
 まず日本の場合、前提条件である危機管理の数値は低いものであると考えられます。これは死から遠い場所に自分が存在しているということを意味します。懐疑心が生み出した想像が事実となった場合、相手のメリットは「駅の場所を知る」に対して、デメリットは「駅の場所を教えてもらえない」。
 一方で、猜疑心が生み出した想像が事実となった場合、相手のメリットは「金の獲得」に対して、デメリットは「犯罪者となって社会的地位を失う、親族への迷惑、刑務所暮らし」。
 この2つの観点から結果を天秤にかけると、私が猜疑心よりも懐疑心を抱く割合の方が強くなることは明白です。

 逆にアフリカの場合、前提条件である危機管理の数値は高いものであると考えられます。これは死に近い場所に自分が存在しているということを意味します。懐疑心が生み出した想像が事実となった場合に手に入る相手のメリットは「駅の場所を知る」に対して、デメリットは「駅の場所を教えてもらえない」。
 一方で、猜疑心が生み出した想像が事実となった場合、相手のメリットは「大金の獲得、豊かな生活、捕まる可能性が低い」に対して、デメリットは「もし捕まれば刑務所暮らしか、罰金」。
 この2つの観点から結果を天秤にかけると、私が懐疑心よりも猜疑心を抱く割合の方が強くなることは明白です。

 前提条件としての危機管理、そして懐疑心と猜疑心の双方から生み出された想像が、相手にいかなるメリットとデメリットを与えるか。これがおそらくは私の他者に対する揺れ動きです。危機管理の数値が高ければ懐疑心は反比例のグラフを、猜疑心は比例のグラフを描くことになるでしょう(逆も然り)。

 ところでこの前提条件である危機管理ですが、やはり経験に頼る部分が大きいと思われます。というのも、前述した通り、旅を通じて比例定数が上昇した結果、日本からアフリカへと渡ったばかりの私にはとてつもない落差に感じていたからです。この比例定数は「危機的状況を経験した数」あるいは「神経を尖らせていた時間の長さ」であると考えます。ゆえに、日本とアフリカとでは、当然異なったグラフが描かれることになります。その国や街の流れ、治安や国民性、相手の周囲にある環境の把握。これは比例定数の変化にとって重要な役割をもたらします。これは経験によってしか手に入れられないものなのです。

 このように考えれば、アフリカ1カ国目であるエジプトに到着してわずか数日で、詐欺にあったことにも頷けます(今となってはもはや自己暗示ですが)。日本のグラフをアフリカに持ち込んでいた、比例定数に変化がない状態でした。しかし、この経験からグラフは急激な変化を見せ始めました。エチオピアでは情報収集が意味をなさずとも、劣悪な環境や詐欺師に抵抗し、徐々に無意識にアフリカのグラフに慣れていきました。そして、カロ族のツアーガイドであったジョンの存在。おそらく私は当初、懐疑心よりも猜疑心を強く抱いていました。ですが、ジョンの話すトーンや会話内容、金銭のやりとり、現地人との会話、バナナを売ってくれたちびっこへの笑顔など、様々な情報から、最終日には猜疑心よりも懐疑心が上回っていたのだと思います。それでも、このナイロビは凶悪都市、またしても比例定数を引き上げざるを得ません。

 そう思って行動していた結果、猜疑心丸出しでタクシーの車内を過ごし、NEW KENYA LODGEの階段で強盗被害に恐れていた私がいたのでした。蓋を開ければタクシー運転手は優しい方でした。しかし、私の危機管理能力が誤りであったとも思えません。それでも善人を疑うことになってしまった事実は変えられない。私の中にある危機管理、懐疑心と猜疑心、そして経験による比例定数。これによって完成されるグラフを制御できれば、他者の関係性の潤滑油となることに期待します。他者の精神や言動である以上、確率論や想像の域を超えることはできません。それでも、ある程度正確な数字や予想は立てられるのではないでしょうか。

 自分の精神面を言語化できたはずだと思った私は、目の前にある作ったばかりのチャイに手を伸ばしました。

懐疑心:自由に飲み物のんでいいとか、ここの宿ええなー

猜疑心:値段書いてないだけで後で高額請求ちゃう?

懐疑心:いやいや、ナイロビは危ないから宿の中にゆっくりできる場所を作ってくれてるんよ

猜疑心:睡眠薬とか入ってるんちゃう?それで貴重品全盗みよ

懐疑心:来てからそんな時間経ってないのに、小細工できるかな

猜疑心:いや、元々睡眠薬入りで観光客用のやつやねんて

 まだグラフの揺れを計測し続ける私。

「まだ起きてたん!?早よ寝ときやー。」

 偶然トイレに起きてきたY氏。

「これめっちゃ美味しいですよ。飲んでみてください。」

 私はそう言って、Y氏にまだ口をつけていない、いや、つけることができていないチャイを渡しました。


ゴクッ、ゴック、ゴクッ・・・

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