見出し画像

未完成な私は発信なんてしてはいけないと思ってた。

あー、やっぱり本音を書くの辞めた方がいいのかな‥

昨日一瞬でもそう思った自分に気が付いた。


私、ブログには正直なことしか書いてない。

ブログと私の心ってイコールなくらい、自分そのもの。

だけどね、それで最近お叱りを受けたことがあったのね。ブログの考え方が甘いということでね‥(^^;


これを受けて、うん。なんと形容するのかな、口の中が苦くなるような、不快な気持ちになった。

それで、一瞬「誰からも何も言われないような、いい子なブログを書こうかな」と思ってしまった。

そこでハッとしたのね。

表面的な同じようなブログが多いのってそういう理由なんじゃないかって。


正直、最初アメーバブログを見た時、同じようなブログばかりで驚いたんだ。

「自分らしく」「嫌なことは嫌と言おう」「自分を大切に」

そういういい子なきれいなブログが多くて。

なんでこういうブログばかりなんだろうって思った。


表面的過ぎて、その人が見えない。

具体的な言葉やその人の生活が見えてこない。

だけど、それっていろんな理由があるとは思うけれど

「怒られたくない」が理由としてあるんじゃないかって思ったの。


だけどよく考えたら、私も実はずっとそうやって生きてきてたんだよね。

自分の考えなんて持っていなかった。

小学生の時は父が亭主関白で怖くて、とにかく言うことに従って、

私たちの不手際のせいで母がどなられないように、

それだけを考えていた。


学校でも、成績が悪かったり、テスト勉強をきちんとしないと「先生に怒られる」と怖がって、まじめに勉強した。

付き合った彼氏も、最初は亭主関白タイプが多くて、考え方をいちいち矯正されていたな。

「お前は短絡的だ」「考えが甘い」「すぐ調子に乗る」‥うん、よく言われたなー(^^;

そうやって生きていたから、

「怒られないような、誰からも何も言われない考え方」を持つように努力し、できるだけ自分の心は発言しなかった。

こんな未完成で、知識もない私が発信する権利はないし、発信したら怒られると思っていたんだよね。


だけど、父からしばらく距離を置いた期間があり、亭主関白彼氏とも別れて、そこから自分が自由になれたんだよね

心が、自由に。

こんなに心を強制されないこと、私生活を自由に送れることが幸せだったなんてと思った。

そこから、少しづつ自分の意見や考え方も話せるようになってきた

怒らずに、聞いてくれる人が周りに増えてきたから。

それが嬉しかったから、

「私なんかが発信していいのかな」と思いながら、ブログも書いてみた

そうすると、「共感しました」とか温かい、面白いコメントをくれる人もたくさんいた。

本当に嬉しかったな。


未完成で、知識もなくて、

すぐに盛り上がっては、すぐに飽きる。

継続性もないし、計画性もない。

そんな私だけど、完璧にならないと発言しちゃいけないなんてことはないんだなと思わせてくれた。

自分の気持ちを表現するって、すごく自由な気持ちになれるの。

やっぱり未完成でも、知識が足りなくても、自分の気持ちを発信したい。


やっぱり思うことは、

私のせっかく開かれた心をまた「怒られるかも」と思って閉じたくない、

ということだ。

いくら強制されたり、怒られても、心の中は自由でいたい。

だから、ブログでは自由なことを書きたい。

未完成な私のままで。


改めてそう思ったのでした^^

今日のつけた「名前」
「ブログの発言内容へのお叱りに対して感じた苦い気持ち」
 これを言葉(名前)に変換すると‥
→私のような未完成な知識のない人は発言しちゃいけないのかもという恐れ。怖さ。

そうわかって、それでもやっぱり発言したい!って思った。
心は自由。

私生活には誰も強制することはできないから😌









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?