旅と語学と戀愛と。

謹賀新年。

人生で何をしたいかわからないという人がゐる。私は、自分が何をしたいかは、物心ついた時既に一点の迷ひもなくわかってゐた。但し、多くの人と同様、自分のしたいことは一つとして出来ないものと、生まれてこの方固く、深く信じてゐた。根拠もなく盲目的に。遍く徹底した教育の賜物である。

抑鬱状態といふのは絶望の直接的な表現である。絶望といふのは、諸相あるやうに見えても、煎じ詰めれば、生きたいようには生きられないと思ふ苦しみに他ならない。それは一つの信念に過ぎないのだが、この信念に囚はれてゐた私は、やはり人生の大半を苦しみの内に過ごす羽目になった。

人生も半ばを過ぎた今、漸くにしてこの信念から自分を解放しつつある。ずっとやりたかった事共に、一つ一つ手をつけてゐるところである。ここではそのうちのいくつか、即ち旅行、言語の習得、恋愛について備忘的にしたためる。

私にとって旅の最大の喜びは、人との出逢ひである。名所も美食も買物もどうでもよく、ただ人に会はんがために、海を超え大陸を渡る。

私の住む東京といふ都会は、1400万の人口を擁し、うち60万人が外国人。人に逢ひたいならここに留るに如くはなかるべしと思へるかも知れないが、旅先でしかあり得ない出逢ひといふものがあるのである。

私が言語を学ぶのは、何より好きだからであるが、第二にはやはり人を知りたいからである。互いに相手の母語を知らない時、共通して話す外国語、例えば英語などがあれば、意思は通じる。しかし、その英語がどちらにとっても外国語である場合、私は自分から遠い言語を操り、相手もまた同じ事をするので、埋め難い距離がいつもそこにある。一方私が相手の母語を話すか、または相手が私の母語を話すなら、そこには大接近の可能性がある。一方にとっては外国語でも、他方にとっては母語である。知的な意味で理解が進むのみならず、心と肌の距離が近づくのである。

相手の言葉を学ぶといふことは、相手とその文化に対する敬意を評し、自ら歩み寄るといふ「実行動」に他ならない。相手に自分の言葉を押し付けるのではなく、自ら学び歩み寄ることが重要なのだと思ふ。この自ら歩み寄るといふことの威力は、存在を深く揺さぶられるやうな、根源的な体験である。

新しい言語を習得すると、新しい国々、人々、文化、要するに新しい「世界」へ誘はれることになる。世界は広い。国も、人も、文化も、体験してみるまで想像もつかない多様さに満ちてゐる。新しいものに触れる驚異にはいつも魅せられ飽きるといふことがない。これを知ると辞められなくなる。話せる言語が多いほど、この歩み寄りと直接的接触の機会は増える。

また私のやうに日本人男性の好みに適はない女には、外国人男性とつき合ふといふ選択肢しかない。ここでもまた言語が多いほど機会と対象は増えるといふもので、学習意欲が増しこそすれ、衰へることなどあり得ないのである。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?