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現代の日本(都市)に住まなければならないという不幸

私が住んでいる某賃貸マンションに、最近「騒音の苦情」が来ているという貼り紙が貼られていた。
住民の質はそれほど低くはないと思っていたのだが、一部残念な住民が混じっているようだ。
管理会社が当該住民に注意をしているのかは知らないが、そもそも誰が騒音の原因なのか分かっていないことも考えられるし、管理会社側が事なかれ主義を貫いている可能性もある。

集合住宅に住む以上、他の住民によって迷惑を被る可能性は排除できない。(現に私が中高生の頃住んでいたアパートでは、隣人の騒音やバーベキューに悩まされていた。)
これは一部の恵まれた人や「隣人」という概念のない超田舎に住んでいる人を除いて、ほとんど全ての日本国民が直面し続けている生活上のリスクだろう。

最近読んだ三島由紀夫の小説(「三島由紀夫紀行文集」)に、「現代は本を静かに読めるような静寂を手に入れようとするだけで、莫大なカネがかかる」と書いてあったが、本当にその通りだと思う。

日本の可住面積が狭すぎるせいか、それともディベロッパーや大家、不動産業者が経費をケチり、壁がスカスカの賃貸住宅を量産しているせいか知らないが、日本の住宅事情は先進国とは思えぬほど貧しい。

北海道の住宅に関しては、道外と比べるとまだマシな部分もある。
(断熱性が優れている、内廊下になっているマンションがほとんど、など)

とはいえ、所詮「一地方都市」に過ぎない札幌では、隣に誰が住んでいるかは知らないし、すれ違っても挨拶はしないということが当たり前で、東京と同じか、もしくはそれ以上に他人に余所余所しい地域だ。

いったいなぜ、ここまで他人のことを意識したり、思いやったりしないのだろうという人間が、札幌には際立って多いように思える。
もちろん東京も同じような雰囲気であったし、特に「成金」の多い地域に住む人たちの人間性ときたらかなり酷いものであったが、札幌に関しては、老若男女がロボットのように動いていると言っても差し支えないような不気味な人が多いのである。

いやもしかしたら、札幌や東京だけでなく、日本人の一般的な性質が上記のような「ロボット人間」なのかもしれない。

仲間以外は皆風景」。
これは社会学者の宮台真司氏が言った言葉だが、日本人というのは自分と直接的にかかわりのある人間でなければ、途端に冷たい態度を取ったり、まるで存在していないかのように扱ったりできる人たちが多いなと感じる。

騒音問題も同じことで、仲間内で騒ぐことだけを優先して、同じ建物に住む住民のことは一切考えない/考えられないことが、問題の根本原因であろう。

日本に住む以上、誰もがロボット人間になってしまう可能性を孕んでいて、自分もその例外ではない。
常に「人の振り見て我が振り直せ」の如く、他人の冷たい態度を見つつ、「自分はこうならないようにしよう」と自分を戒める毎日である。

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