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聖地エルサレムのトイレで少年に襲われそうになる

昨日は怒り心頭のまま眠りについたからか、朝起きてから気分が悪く夕方まで横になっていました。
今日の予定はクライスト・チャーチとオリーブ山だったので、教会はしまっていてもオリーブ山からの夕焼けはきっと綺麗だろうと思って行ってきました。

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オリーブ山の展望台?には公衆トイレがあったので、中東と言えど日が落ちるとさすがに寒くトイレに行きました。
イスラエルに来て思ったのは、ヨーロッパと違い、公衆トイレが結構あってお金を取らないということ。

意外に綺麗に掃除されていたので、へーと思いながらトイレを出て手を洗っていたら掃除係の少年が。
「どこからですか」と聞かれたので「日本から」と答えた。

ハンドペーパーがなかったので自分の鞄から出そうとしたら「あ、こっちに」というので待っていたら、私の手を取って拭き始めたので「やな予感!!!」と思って「あ、大丈夫、ありがとう。自分で拭くから」とハンドペーパーをとりあげたら「このあとお茶でも行かない?」って、、、


デターーーーーーーー
行くかボケーーーーーーーーーー!!
なんでトイレ掃除の少年と36歳がお茶せにゃならんのじゃ!!!

「あ、ごめん、行かない」(←去ろうとする)
「友達か誰か外で待ってる?」(←追いかけてくる)
「いや、一人だけど」

しまった!余計なこと言った!と思った瞬間、キスしてこようとしたので速攻でかわす。

「だって、綺麗だから…!何歳なの?」って、はぁはぁ言いながらケツわし掴んで来たので「fuckin' shit!!」って、どついてハンドペーパー投げつけて出て行ったら「本当にごめんなさい」って後から追いかけて来て、謝るくらいなら下らねーことすんな、クソガキ!って感じでした。

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別にこれ中東だからってことではないと思うんですけどね。
日本でもこういう目には遭ってるので。

ただ、こういうことを観光地で観光客にするって、自分の国の印象を下げることに繋がると…は、思わないんだろうな、というより教育が行き届いてないんだろうな。

想像以上に、旧市街のイスラム商店ではまだ小学校低学年くらいの年齢の子供でも店先の手伝いをさせられています。
イスラム教の預言者ムハンマドは商売人でしたからね。

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こういう事に遭遇しても「怖い目に遭った」ではなく「ムカつく目に遭った」と思ってしまうあたりが、自分って多分普通じゃないんだなーと思ってしまった。

基本何でも「最悪」を想定しているので、特にこれといってめちゃくちゃ困るって滅多にないです。

まぁ、ムカつく事の後に昇天教会に行ったところで神聖な気持ちになんてなれず。。。
いちいち聖地としての期待を裏切ってくるエルサレム。

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(写真:昇天教会)

そして、クライスト・チャーチの場所を確認しにまた旧市街地へ。
夜の方が観光客も少なく、お店も閉まりかけているのでウザい客引きも少ないので、個人的には夜の方が良かった。


クライスト・チャーチについて、カフェが併設されていたので一息つこうと注文をしていたら、私のペンダントを見て、
「それ、マリア様?どこから来たの?」と聞かれた。

「はい、マリア様です、クリスチャンなので。日本からきました」
「いや、自分もクリスチャンだけど」
「私はアングリカンです」
「え、ここはアングリカンだよ」
「知ってます、だから来ました」
「日本のアングリカンはマリア信仰があるの?」
「マリア信仰とまではいかないですが私の母教会にはマリア像はあります」
「へぇー…(冷たい目)」

おおおおおおおお プ ロ テ ス タ ン ト !

朝ごはんを食べている時に宗教学を勉強している男の子に言われたことを思い出す。

「クライスト・チャーチが落ち着いてていいよ。知り合いが何人か奉仕してる」
「そこ今日行こうと思ってて。アングリカンだから」
「あ、アングリカンだったんだね。他のアングリカンを知らないから、はっきりと何がどう違うって言えないけど、普通のアングリカンはプロテスタントとの中間じゃん?それとはちょっと違う感じだけど、でもいい教会だよ」

「このことかー」と思いました。

門に「中東で最も古いプロテスタント教会」と書いてあって「いや、アングリカンはプロテスタントとは違うけど…」と思ったんだけど、しっかりとマリア信仰については否定している感じなのね。
そこのボーダーでのプロテスタントね、と。

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母教会の信者でマリア信仰を持っている友人がいて、私はマリア「信仰」があるわけではないです。

その友人が、今の司祭(カトリック:神父、プロテスタント:牧師)に変わってからマリア像の部屋を閉めるようになった事に対して怒っていて、マリア信仰とまではいかない私にとっては「怒るほどのことではないけどなー」と思いつつ、彼女にとってイエス様同様に大切ならクリスチャンにとってマリア様を否定する理由もないからね…と、アングリカンの「思想・信仰の自由」として感じていたのだけど、ここエルサレムはそうはいかないようだ。。。

戦争と啀み合いがなくならない訳です。

なんで同じ神を信じる者同士として、仲良くできないのか。
なんで同じ信仰のみを持たなければならないのか。

人間は生まれたその瞬間から、全く誰しもが違う環境で生きていくのだから、同調できる部分もあれば、できない部分もあって当然ではないのか?

私が洗礼準備期間の勉強中に、今は亡き司祭が教えてくれた事。

「自分の体で考えてごらん。目は手に向かって”お前は見ることができないから役立たずだ”とは言えないし、手は目に向かって”お前は物を掴むことができないから役立たずだ”とは言えないだろう?それぞれの役割をそれぞれが担うことで体を動かすことができる。人間の社会もそうなっているんだよ。皆、自分にしかできないことを持っていて、だけど自分にはできないことも持っている。お互いがお互いを補うことで社会が回る。だから、人を赦しなさい。愛しなさい。」

私の信じる道は、この通りなんだけどなぁ。。。


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