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世界一周に飽きた!!!

僕は約7年ほど世界一周への夢を膨らませてきた。
大学で南米に留学後、
「もっと世界を見てみたい」
「せっかくどこの国にも行ける時代に生まれたんだし、できるだけ多くの国を見てみたい」
という気持ちが募っていた。

そして7年越しに夢を実現して、今は世界一周をしている。

だが正直な気持ちを話すと…【飽きた】。
贅沢なことを言っていることは百も承知だ。
日本に帰ってから読み返せば、自分でも「なんて贅沢野郎なんだ」と呆れることだろう。

しかし、よくよく考えれば世界一周というのはなかなか“罪深い“。

そもそも世界一周に憧れたのは、
「海外の未知の国に訪れたい」
という気持ちも当然あったが、
「日本という慣れ親しんだ国になんだか飽きて、他の刺激が欲しいな」
という気持ちも同じくらいあった。

世界一周という夢もあったが、同時にただ刺激を求めていたという側面もある。
その点で、世界一周は刺激だらけだ。

どの国に行っても、通貨や言語のような大きな違いはもちろん、バスの乗り方や食べ物の注文の仕方のような細かな違いまで様々だ。
平均的に2週間ほどで移動を続けているが、2週間というのは、ちょうど1つの場所に少し慣れ始める頃合いだ(僕の場合)。


慣れ始めるころにまた移動、また慣れ始めて移動…
常に刺激を浴び続けることで刺激があることが普通になる、「非日常が日常になる」感覚になってしまう。

世界一周に行く前は、刺激に慣れて刺激が普通になる、「非日常が日常になる」なんて思ってもみなかった。


ところで、なぜ「世界一周が“罪深い”」と書いたのか。
まず僕が飽き始めたのは、実は結構早い時期で、旅を始めてから2ヶ月後だ。
最初は「なんかワクワクが減ったな」という違和感だったが、3ヶ月目の中盤で「飽きた、疲れた」とはっきり意識するようになった。

どうすれば良かったのだろうかと自問自答した。
真っ先に「情熱を持って探求できる目的を持つべきだった」と思ったが、情熱を持ってずっと続けている趣味や、人生の目的などもない僕に、急に目的が湧いてくることもない。

「アジア、アラビア、ヨーロッパ、アフリカと1つの地域を2〜3ヶ月かけて回り、飽きたら日本に帰る、日本の生活に飽きたらまた出かける」
良いアイディアに思われたが、流石にそこまで余裕があり、融通の効く生活を送れていない。

そのような生活を送ろうと思ったら、日本でホテル暮らしか実家暮らしをするしかない。
賃貸の場合、引越しを何度もするのは面倒だし、お金もかかる。
現実的ではないとまでは言わないが、簡単でもない。


結局、どうしたのか?
どうもしていないが、強いて言うなら「飽きた」という事実を受け入れて、まったりとしている。
旅を始めた頃のように毎日どこかに出かけたり、ツアーに参加したりせず、仕事をして疲れたら寝る。
まるで日本での、自分が飽きたと言っていた生活を送っている。

しかし、これが心地良いのだ。
移動に疲れると、人は定住を求めるようになるらしい。


人は単調な日々なると刺激を求める。
これが生物の危機意識の一環、進化を求める本能なのか。
それとも資本主義の「新しいモノ、経験を求めよう。それが幸せだよ」という囁きなのか、わからない。
一方で刺激が多すぎると、人は平穏を求め始める。

「隣の芝は青い」
人は常に自分が今持っていないものを欲しがる。
使い古されたことわざだが、今回の経験と照らし合わせると、人生の教訓にしたいほど大切な言葉だとわかった。


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