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スペースノットブランク『光の中のアリス』

12/12(土)、ロームシアター京都で舞台『光の中のアリス』を観た。
おもしろかった。

観ているあいだずっと思っていたのは、役者の動きと声がすごい。そして、ちゃんと「ワンダーランド」感がある。

どんな声帯してるんだよ…という音声の表現。身体能力。役者さんたちは怪物じみていた。めまぐるしく画面上を跳び回る、トムとジェリーみたいなカートゥーンのキャラクターが重なった。

カートゥーン、アニメーション、映像への意識については、パンフレット?でも語られていたし、脚本でも「映画館で映画の中に引きずりこまれる」?という構想だったらしいから、まさにそういうことなんだろう。

越境。現実の、生身の身体を持った役者が、カートゥーンのキャラクターみたいになる。アニメをどれだけリアルに、現実に近づけるかを考える人は多いと思うけど、『光の中のアリス』はその逆で、現実が、あえて虚構のマネをする。

いくらマネしたところで、生身の人間が虚構そのものになることはできない、役者がキャラクターと100パーセント重なることはないけれど、そこに残る不可避の「ズレ」、想定外の「余剰」こそがおもしろい。それは、役者が演じる舞台、現実と虚構のあいだにある演劇でしか生まれない、新しいもの=光?

『光の中のアリス』に限らず、一部の演劇を観ていてよく抱くのが、「なんだこれは?」という感情。明確なストーリーがないけれど、キャラクターは存在していて、脈絡のなさそうなよくわからない台詞を吐く。そして何かが進行していく。

でもそれは、一般的なフィクションのストーリーではなく、現実的な意味での整合性とは別次元の論理。そういう演劇は、現実でもなければ、完全なフィクションでもない、よくわからない存在だから、「なんだこれは?」

でも、演劇ってそもそもそういうものなのだ。現実じゃないけど、アニメや漫画や映画とは違って、現実と切り離されて独立した世界でもなく、生身の生きた役者がいる。

身体と声による「そこにある」「生きている」という説得力があるから、整合性をぶち壊すようなことをやっても、破綻しないのだろうか。

そこにあるのは現実でも虚構でもない、現実とは別の論理を持った「もう一つの現実」。見たことのない、新しくてヘンテコなものが目の前に生まれている。

そのヘンテコさは不条理感、ワンダーランド感につながる。『光の中のアリス』を観ているときのワンダーランド感は、台詞や演技や演出、いろいろな創意工夫によって見事に表現されているものでもあるのだろうけど、それとは別に、根本的に演劇というものが持っている不条理さにも結びついている。というか、その演劇ならではの良さを、最大限引き出すように創られているのかもしれないけど。

演劇は制約が多い、とパンフレットにも書いてある。その制約のなかで、「ワンダーランド」をどう再現するか。難題だ。現実離れしたワンダーランドを描くなら、ほとんど変幻自在な表現が可能な映像作品のほうが、演劇より遥かに分がある。

だけど、僕が観ていて絶えず「ワンダーランド」を感じていたということは、『光の中のアリス』はその難題を見事クリアした作品なのだろう。すごい。

「とはいえ結局アニメには勝てないんじゃないか」と言うと、そうとも思わない。

映像作品のワンダーランドは、既にそこにすべて描かれている。想像の余地はない。でも、演劇には余白がある。役者がどれだけ死力を尽くしたところで、物質的には映像作品のような完璧なワンダーランドが目の前に実現するわけじゃない。

だがそれがいい。その弱さこそ、強さに転じる。スペースノットブランク。そこにある「スペース」=余白は、なにもない「ブランク」ではない。むしろそこにこそ、無限の可能性=光が生じる。豊饒な余白。ワンダーランドは舞台上で完成するのではなく、受け手の頭のなかに描かれるもの。想像の世界でこれから創り上げられていくもの。

作品だけで閉じていない、受け手とつながっているのが演劇の「光」?
そう、一番印象に残ったのが「光」の場面だった。照明の「光」が観客を照らし、役者が観客を集合写真にたとえる。あそこはとてもおもしろかった。

ぺらりとした一枚の写真に閉じ込められて、キャラクターの手に取られている。生殺与奪の権を握られている、足下が抜け落ちるようなゾクゾク感。穴を落ちていくアリスの感覚。

観客を舞台へ引きずり込むようなメタ的な演出は、他の舞台でも見たことがある。けれど、『光の中のアリス』がすごかったのは、その方法論に明確な意図があって、「先」を行っていたところ。

観客は集合写真にされただけではない。「写真が映像になって動きだす」のだと言われた。光に照らされたみたいにハッとした。

「光あれ」。
創造神のその一言で世界が息をしはじめたように、animate=生命を吹き込む。アニメーション、ワンダーランドのキャラクターが役者に宿り、見たこともないものを生み出した。それを受けとった観客にも、息吹が吹きこまれ、つづいていく。舞台が終わっても、そこで渡されたなにかがいきつづけていく。

「なんのクリスマスプレゼントもないよりは、ことばだけでもあったほうがうれしい」そんな台詞もあった。僕もあの瞬間、「写真が映像になって動きだす」のだと言われたとき、プレゼントを受けとった気がした。12月12日、一足早いけれど。

この文章もプレゼントになればいいな。

ここからは私事だけど、僕がいま書いている小説は、小説だけど演劇というていになっている。劇の脚本ではなく、あくまで舞台上で展開される物語を小説として描写する。

『光の中のアリス』は、映像作品を演劇で再現するという「越境」をしていて、自分がいまやっていることと重なるなと思った。僕が演劇を小説にしようと思ったのは、野田秀樹の劇を観たのがきっかけで、「なぜ」を明確に言語化するのは難しいけれど、きっとその「越境」によってしか生まれ得ないものがあるのだろう。『光の中のアリス』がそれを証明してくれた、気がする。

だから自分もがんばろう、と思えた。「優れた小説は実人生にフィードバックを与える」みたいなことを、保坂和志が言っていたけど、それはもちろん小説に限らず、創作物全般に言えることで、『光の中のアリス』はちゃんとその「生きることへのフィードバック」を目指して創られた作品だと思った。

生を吹き込まれた。いきる。いきをする。
言葉遊びもたくさんある作品だった。それはもちろんアリスへのオマージュなのだろうけど、僕は勝手に野田秀樹を思い出していた。野田秀樹の言葉遊びは、表面的なものではなく、物語のテーマと密接に結びついている。異なる言葉どうしが組み合わされることで、物語が動き、意味が広がり、増幅、拡張、変化、新しいものへとつながっていく。

『光の中のアリス』の言葉遊びにも、似たものを感じた。ことばがつながり、生きているみたいに何かが動く。そしてまたつながる。僕たちへと。

接続。観客とつながることを試みる演劇。『光の中のアリス』は本質的な意味で、とても演劇的な演劇だ。(演劇やったことないからわからないけど、たぶんそうなんじゃないかな)

アリスの言葉遊びは詳しく知らないけど、やっぱり「つながることで新しいものが生まれる」という感覚は強い気がする。ワンダーランド。センスオブワンダー。ことばが生み出す、不思議な生きものたち。生まれる、生まれる、生まれる。生の光に満ちた演劇だった。

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