映画『ドライブ・マイ・カー』感想。演技という名の罪と救い。真実、奇跡、愛、信仰
(ネタバレありの感想です)
京都シネマで、濱口竜介監督の最新作『ドライブ・マイ・カー』を観てきた。
傑作だった。濱口監督の映画、これまでに5本観てるけど、自分的には全部傑作だったのですごいと思う。
映画監督に限らず、自分の中で「5作品みて全部傑作」という創り手は今のところ他にいない。
しかもほぼ毎作品泣いている。『ドライブ・マイ・カー』でも涙が止まらず映画館で嗚咽をこらえるのに必死だった。
僕は極端な例かもしれない。そこまで感情移入できないという人もいるようだ。
ただ、「(一部の観客を)異常なまでに感情移入させること」は、監督も狙ってやっていることだと思う。
パンフレットに次のような文章があった。
彼らの感情表現は繊細で、微笑にまた別の感情を潜ませる。だから私たち観客は、自分たちの日常と同じように、その真意を読み取ろうと目を凝らす。
自分たちの日常と同じ。これは大きなキーワードだと思う。
濱口監督の映画を観ていると、だんだん自分が何を観ているのかわからなくなってくる。
それは、いつのまにか自分が役者と同化してしまうからだと思う。
度を越えた感情移入は、「共感できる」ではなく、「映画を観ている自分が消失して、役者と完全に一体化する」という域にたどり着く。
だから、「映画を観ている」ではなく「他者の人生や日常を体験している」という感覚に近い。
「奇跡」が映っている、と観ていて思った。
誰の人生にも、「ああ、これはなんだか特別で、奇跡みたいだな」と思う瞬間があると思う。
それは普通映画には映らない。
「カメラが回っていて、虚構のお話の中で演技をしている」時点で、「人生における奇跡」を再現することは不可能なはずだ。
でも、『ドライブ・マイ・カー』はその不可能性を超えている……ように見えた。
不可能な超越を可能にしているのは、役者の演技によるところが大きいと思う。
「濱口メソッド」とも呼ばれている、特殊な演技指導。
参照:演技なのか、ドキュメントなのか 世界を魅了!「濱口メソッド」
「演技を超えた演技」、役者の「生の感情」を引きずり出す演技。
演技だけど真実。だから人生であり、奇跡である。
『ドライブ・マイ・カー』の「奇跡的な瞬間」について、語り尽くすことはできない。
だから一つの場面に絞って語ろうと思う。
岡田将生演じる高槻が、西島秀俊演じる家福に向かって、車中で長い長い「真実の告白」をするシーン。
僕はこの場面でほとんどずっと泣いていた。なぜ泣いているのかもわからないまま。
高槻に感情移入して泣いていたのだろうけど、彼がどういう感情なのかはわからない。
彼自身わかっていなかったんじゃないかと思う。
パンフレットには、岡田将生も、濱口監督でさえも、高槻のことは「わからない」と書かれている。
高槻はとても複雑で、矛盾した面を併せ持つキャラクターだ。
軽薄なようで深い。汚れているけど純粋。
何が彼の「真実」なのかわからない。
それは高槻が自分を指して語る、「空っぽなんです」という言葉にも表れていると思う。
空っぽとは、真実が一つもないということだ。
僕もそういう人間なのでわかる。
だが、言いかえれば、空っぽな人間は何にでもなれる。
畢竟、それは演技。
空っぽの人間は、実人生においてもいろんな感情を演技する。
演技によって、自分の空虚を埋めるために。
その結果、矛盾する感情もすべて取り込み、どれが自分の真実なのか、よりわからなくなる。
そんな中、高槻にとって唯一「真実」だと信じられたのが、家福の妻・音への愛だったのではないか。
わからない。それを真実と断言していいのかどうかは。
高槻自身も疑い続けていたのかもしれない。「結局この愛も嘘なんじゃないか。俺はやっぱり空っぽなんじゃないか」と。
それでも彼は、こう言う。「音さんは素敵な女性でした」。
嘘か真かはわからない。でも、言葉にすることで、信じたいんだと思う。
自分にも真実があると。
台詞によって、演技によって、真実を形作る。
彼の言葉には、声には、そういう意味での真摯さが宿っていた。
「真実が欲しい」という真実の感情。
だから彼の演技は命懸けで、狂気的だった。
その狂気は彼自身を破壊することになる。
高槻にワーニャ伯父さんを配役した家福は、こう言う。
「君は役に自分を捧げることのできる役者だ」
役に自分を捧げること。それは役になるために、自分を破壊することでもある。
「チェーホフのテキストは役者を侵食する」
ワーニャ伯父さんの破滅的な情熱に同化するのは、とても危険なことなのだろう。
演技が高槻の暴力性を増幅させ、彼自身を破滅へ至らせる。
だが彼はそれを引き受けた。
「音さんが僕たちを引き合わせてくれたと思うんです」
役に自分を捧げること。それは狂気的な愛の情熱に似ている。
彼は演技をするときのように、音にも全身全霊で自分を捧げ、その分深く傷ついたのかもしれない。
愛すること、演じること、生きること。
その三つは高槻の中で、重なり合っていたのだと思う。
客観的に見れば、彼の迎えた最後は「人生の敗北」「悲惨な結末」かもしれない。
でも、警察に連れられて行く彼に後悔の色はないように見えた。
こうなることはわかっていた。
それでも、やるべきだからやった。
俺は成し遂げた。人を殺し、自分を破壊してでも、愛と演技を貫いた。
やっと真実を手に入れた。
「これでやっと俳優と名乗れる」
岡田将生はパンフレットでそう語っている。
演技を観ていても、パンフレットを読んでいても、岡田将生という役者にとても興味が深まった。
僕は彼の役者としてのキャリアを詳しく知っているわけではないけれど、
「ものすごくルックスの整った『王子様』的な俳優」
という、おそらくは世間一般的に思われているであろうイメージを持っていた。
だから『ドライブ・マイ・カー』での演技を観て本当に驚いた。
こんなにも本能や情熱や狂気みたいなものを剥き出しにした演技ができる人なのかと。
「王子様」の仮面とは対極にある要素。彼自身のイメージを破壊しているように見えた。
そこには表現者としての強い情熱がある。まさに「役に身を捧げている」人。
一人の人間として、彼のその激しさは美しいと思った。
それが一歩間違えば、「暴力性」に転じるものだとしても。
濱口監督は、パンフレットでこう語っている。
原作でぼくが一番惹かれた部分、「ある言葉をその人の一番奥深いところから出す」高槻っていう人をこの人だったら演じられると思いました。俳優さん自身にその資質がないと、つまり自分の深いところから声を出せるような生き方をしてないと、演じることはできない。岡田さんはちゃんとそういう、真実がある人だと感じています。
「演技の両面性」を強く感じる作品でもあった。
高槻が「矛盾する両面」を孕んでいるのは、彼がさまざまな演技をするからだろう。
たとえば一人の人間が、「正義」を演じることも、「悪」を演じることもできる、
という意味で、そもそも演技とは両面的、アンビバレントな行為だと言える。
そんな演技という行為を深く見つめる作品だからこそ、濱口監督は演技の「正」と「負」、両面を描くことを忘れない。
「正」だけでは嘘になる。
「負」も描くから真実なのだ。
真実を欲する高槻と同じように、濱口監督も限りなく「真実であろう」と努めていると思う。
『ドライブ・マイ・カー』における、演技の「負」の側面。
日常における演技によって、家福は妻に本心を隠し続け、とりかえしのつかない後悔を抱えることになる。
高槻は暴走し、破滅する。
しかし、最後に家福を救うのも『ワーニャ伯父さん』の上演という演技だ。
韓国手話によって語られる、ソーニャの慰めの言葉は感動的だった。
ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長いはてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてそのときが来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなに辛い一生を送って来たか、それを残らず申し上げましょうね。すると神様は、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るいすばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの……。ほっと息がつけるんだわ。
これは新潮文庫の『かもめ・ワーニャ伯父さん』からの引用。
僕も昔読んで、ここが一番心に残っていた。
美しくて、激しくて、優しくて、穏やかで。すごい台詞だ。
ひたすら働いて死んでいくしかない、なんて、ひどく残酷なことを言っているのに、どこまでも赦されている感じがする。
この台詞もまた、『ドライブ・マイ・カー』という作品自体と同じように、両面的だからかもしれない。
人生は辛いものだという「負」の側面を認めた上で、生という「正」の物語を語る。
いや、本当は「正」「負」と分けることがよくないのかもしれない。
家福や高槻の罪や苦悩が、間違っていたとは思わない。
後から振り返って「間違いだった」と思っても、その時の彼らはそうすることしかできなかったのだろうから。
生きて、考えて、選んだ。たとえそれが「逃避」だったとしても、選択したのだ。
誰にもそれを間違いと断じる権利はない。
事実、彼らの苦しみには意味があった。苦しむからこそ天国で救われる、とソーニャが語るように。
苦しみから生まれる奇跡のような物語が、希望がある。
それらはすべて、『ドライブ・マイ・カー』に映し出されている。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より
僕たちは「峠」をドライブしている。どこまでも続く道の途上にいて、先を見通すことは神にしかできない。
だから何も否定できない。「負」だと断罪することはできない。
すべてが赦されているとはそういうことだ。
「でも、ソーニャの言うように、本当に最後には『神の救い』が待っているの?」
わからない。
でも本質はそこではないのかもしれない。
キリスト教を信仰していない僕にも、ソーニャの台詞は深く刺さるからだ。
天国を信じているからじゃない。
「あなたを救いたい、赦したい、信じたい」という、ソーニャの感情そのものが心を揺さぶるのだと思う。
高槻が車中で語っていたあの言葉の群れにも、いま僕は同じようなものを感じている。
「私が殺した」
音の語った物語の女子高生は、罪を犯したのに罰を与えられない。
罰されるとは、救われることなのかもしれない。
音は家福に罰を与えてほしかったのかもしれない。
「どうして私を救ってくれなかったの」
高槻は「音の声を演じる」ことで、そう家福に訴えかけていたのだろうか。死者の声を語るシャーマンのように。
だとしたら、その声は届いた。
家福は自分が音と向き合わなかったことを認めた。
そして舞台に立ち、観客に希望と赦しを届ける。
高槻が命懸けで伝えた音の声が繋いだ。
その媒介となったのは演技。
あの高槻の「演技」は、音への愛でできていた。
空っぽの人間でも、その愛だけは真実だと信じた。
たったひとつの信仰。
それはソーニャが信じた、神の救いに似ていないだろうか。
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