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小説『ファミリーレコード』プロローグ

コンセプト

 この小説は、舞台の上で演じられる。劇の脚本ではなくて、『舞台の上の物語』を描いた小説。なぜ小説でありながら、演劇の体裁をとっているのか? それにはいくつかの理由がある。
 小説はひとりで書くものだ。だから『閉じてしまう』ことが多い。ほんとうに素晴らしい作品は、作者ひとりの価値観に閉じていない。『他者』のまなざしへと開かれている。少なくとも僕は、そう思う。
 演劇には、役者と観客という『他者』がいる。役者は役を演じるけれど、登場人物そのものにはなれない。彼の/彼女の心と体は、あくまで役者、その人のもの。それはひとつの限界であり、可能性だ。役者という他者の心身を通じて、ことばは生きた響きを帯びる。
 そして、観客。舞台の先には、あなたがいる。

 人に届く、開かれた小説とはなにか。『自分のことだ』と思わせるもの。ひとりの価値観に閉じていては、似た考えの人にしか届かない。
 この小説の主人公は、十二人。それぞれにモデルがいて、性格も考えかたもちがう。その意味では、架空の人物とは言いきれない。生きている。そして、なにかを求めている。幸福。快楽。使命。成長。なんのために生きるのか。それぞれに人生の物語がある。その物語をたどる途上で、彼ら/彼女らは悩み、喜び、ときには怒り――ぶつかり、すれちがい、重なり、溶けあう。美しさも、醜さも、ありのままに見せてくれるだろう。
 そのどこかに、あなたの人生と交わる瞬間、照らされるような瞬間があれば。

 この小説は、十二の章からなっている。それぞれ時代や場所が変わり、主演も変わる。世界観も価値観も、ひとつではない。どれかひとつくらい、あなたにしっくりくる世界が見つかるかもしれない。
 あなたは十二人の役者とともに、世界と人類の歴史を旅する。戦争や宗教、思想についても語られる。自分の日常や人生とは、かけ離れた話に思えるかもしれない。けれど人類を織りなすのは、ひとりひとりの人間だ。必ずどこかで、あなたの生と重なっている。
 たとえばだれかを傷つけたり、傷つけられたりした経験。あなたにも覚えがあるだろう。どうすれば傷つけずに済んだのか? 治るとも思えない深い傷と、どう向きあっていけばいいのか? これは『罪』と『救い』の話だ。人類に置きかえて言うならば、『戦争』と『宗教』の話につながる。
 歴史はあなたにヒントをくれる。自分と無関係な過去ではない。人間の根本的な性質が変わらない以上、おなじ過ちをくり返すのは当然とも言える。だからこそ、歴史に学ばなければ。人類がなにをしてきて、どこへ向かおうとしているのか。その歩みは、あなたの歩みと重なるはずだ。

「人に教えを垂れるほど、お前は大した人間なのか」そう思った人もいるかもしれない。たしかに僕は、すべてを知っている神様ではない。自分に嫌気がさすことも多い、無力で未熟な人間だ。なにかがうまくいかない。周りの人と、自分のいる集団や社会と折りあいがつかない。そんなことだってしょっちゅう思う。どこにでもいる普通の人間。いや、人の気持ちがわからないという意味では、普通以下だと思う。だからこそ、他者からの学びを求めている。そしてこの小説を書いた。
 僕だけの力でできた小説ではない。歴史や世界は、僕の「外」にある。登場人物のことばや思想も、たくさんの他者の声でできている。自分の力は信じられないけど、人から与えられた経験の価値は揺るがない。授かったものを、小説という器のなかで、つなげたり、組みかえたりして、物語という形にする。
 この小説の着想を与えてくれたのも、他者だった。大切な人とのかかわりから、他者という存在の大きさを知った。素晴らしい演劇や映画に出逢い、表現の方法論をとり入れた。そして物語の骨子と題名は、あるロックバンドのアルバムから拝借した。
 僕が書いたというよりも、「みんなが書かせてくれた」作品だ。主人公たちは生きていて、物語は書かれるのを待っている。みんなを結末まで連れていけるのは、自分だけ。使命感のようなものさえ覚えていた。自分が授かってきたものへの感謝と、それに恩を返すという感覚。恥ずかしい勘違いなのかもしれない。でも、届いてほしい。
 願う。あなたに届く小説であることを。

 いよいよ舞台がはじまろうとしている。想像してほしい。あなたは観客席にいて、舞台を観ている。なにも見えない暗闇のなかに、それがあることを知っている。周りの闇には、人がいる。たくさんの息が、あなたとともに、少しずつ熱を高めていく――

序幕

 舞台の中央が、明るくなる。まだ閉じている赤い幕を、丸く照らしだすスポットライト。そのなかに、ひとつの白い影が現れる。上下白のスーツ、ふわふわの白い髪に白い肌のその人は、光の白さと溶けあって、なんだか輪郭もあやふやだ。胸の前で右腕を曲げて、執事みたいにうやうやしく礼をするけれど、伏せた目の下、繊細な長いまつ毛の下で、口元はいたずらにほころんでいる。
「ようこそみなさん!」急に身を起こし、両腕を広げて、満面の笑みで呼びかける。「私たちの劇にお集まりくださいまして、ありがとうございます。お足元の悪いなか……と、私はいつも口癖で言ってしまうんですが、今日のお天気はどうでしたっけ? 舞台の上で暮らしていると、外には疎くなるもので。そちらのうるわしいお嬢さん(観客席へ手のひらを差し向ける)、今日のお天気は? ……快晴ですか! すばらしい。と、これも口癖で言ってしまいましたが、雨のほうが好きな方もおられるかもしれない。そちらのいぶし銀なおじ様(さっきとは逆のほうへ手を向ける)、そう、あなた。いかがですか? ……おおっ、よかった。雨派の方だ。かく言う私も、雨が好きで。気が合いますね? でもごめんなさい、私は晴れも好きなんです。曇りも、虹も、嵐も月も。好きになったり、疎ましかったり、そのときの気分で変わります。天気も同じ、さっきまでは晴れていたかもしれないが、いまはにわか雨が降っているかも。あるいは、この辺りは晴れ渡っているけれど、遠くからお越しの方、お住まいの場所では雨だった、そんなこともあり得るでしょう。ですから『お足元の悪いなか』、これも一概にまちがいとは言えない――」
 リリリリリン! 舞台の右上から、けたたましいベルの音。
「おっと。監督に怒られてしまいました。あの人(と右上を指さして)、うるさいんですよ。脚本に書いてないこと、勝手にしゃべるなって。自分が書いたホンだからって、ホンキになっちゃって。いやですねえ。私だって、悪気があってやってるわけじゃない。みなさんとコミュニケーションをとりたいんです。私はずっと思っていたんですが、世に言う演劇なるものは、急にわけのわからないやつらがぞろぞろ出てきて、わけのわからないことをぺちゃくちゃ喋くりだす――あんまり失礼じゃありませんか? これから少なからぬ時間お付き合いいただくみなさんに、私は礼を尽くしたい。わざわざお金を払って足を運んでいただいている、まずはそのことへの感謝を示すのが、ほんとうの『はじまりはじまり』であるべきだ! ……なあんて、ホンキで思ってるわけじゃありませんが。こっちのほうが、楽しいかなって。なんとなくね。みなさんの顔見て、あんまり真剣だったものですから。こーうやって、針の穴に糸通そうとしてるみたいな(両手でそのジェスチャーをしながら顔を近づけ)、すんごい顔してましたよ(眉間をシワでくちゃくちゃにして、鼻の穴を広げ食いしばった歯をむきだしに)。そんな顔されてちゃ、こっちも笑って集中できない。だからね、リラックスリラックス。物語の海へ飛びこむまえに、心をほぐす準備運動。ぼくのことも、知り合いだと思ってください。友達がやってる劇だったら、応援したくなりませんか? ……というわけで、ここからは登場人物のご紹介。ぜんぶで十二人出てきます。全員覚えなくても大丈夫。『この人、なんか気になるな』とか、『友達になれそうな感じがする』とか、『自分に似てるとこがあるかもしれない』とか、そんな風に思える人を、一人でも見つけてもらえれば――」

1. 有朱(アリス)

 スポットライトのなかへ、右から一人の女性が現れる。肩にかかるくらいのダークブラウンの髪、はっきりした顔立ちに、都会的な華やかさのある赤い服がよく似合う。自然に微笑み、臆せずまっすぐ客席を見ている。目力の強い大きな瞳は、大きすぎて逆にどこを見ているのか、よくわからない感じもする。
「あの、まだ紹介してないんですけど――」と白い人が言うのもかまわず、
「有朱(アリス)です! こんにちはーっ!」と女性は観客に叫ぶ。「……あれ? 返事が小さいなあ。せっかくこんなにかわいい私があいさつしてあげてるのに。みなさん、もっと全力で! 命の限りを燃やし尽くして! せーのっ、こんにちはーっ! ……おっけー、最高じゃん。私もみんなも。今日は最高の日になるね」
「有朱さんの人生の目的は?」
「いきなりだね?」
「ですよねー。でもこれ、みんなに訊くことになってるんですよ」
「脚本で?」
「ええ」
「堅苦しい質問だね」
「ですよねえ。いきなりヘビーすぎるっていうか、空気よめ――」
 リリリリリリン! とベルの音。二人そろって、右上を見る。
「怒られちゃいましたね、監督に」
「ガミガミうるさいお母さんみたい」
「人工衛星みたい」
「? どういうこと?」
「えーっと……宇宙から、地球上の全人類を常時見はってる、監視衛星。神様気取りの」
「π(パイ)ワールドだ」
「あはは。すいません、変なこと言って。あ、」客席へ向きなおり、「πっていうのは、ぼくの名前のひとつです。ぼく、いくつか名前があるんですが、それはともかく――有朱さんの紹介に戻りましょう!」
「司会下手くそー!」
「ちょっと、勘弁してくださいよ」困ったように笑いながら、「まだ初回なので……」
「流されすぎなの! しゃきっとして!」
「……はいっ。では、有朱さんの人生の目的は?」
「生きたいように生きること! 人生一度きりだから、後悔しないように、ほんとにやりたいことをやる!」
「単純明快ですね」
「バカにしてる?」
「いやいや。そこが有朱さんの素敵なところですよ」
「だよねー」
「はい。では、好きなもの・こと・趣味は?」
「きれいなもの。わくわくすること。趣味は、旅行かな? 体を動かすのと、文章を書くのも好き!」
「それは意外。なにを書いてるんですか?」
「日記とか! いいなって思ったものとか、嬉しかったこととか……ぜんぶ『一度きり』だけど、書けばずっと残るし……人になにかを伝えるときも、文章なら何度も書き直して、いちばん確かな『自分の声』を届けられるから」
「意外とまじめに考えている!」
「うるさいなあ」
「あはは、ごめんなさい。そういうところも素敵ですよ」
 ふふん、と有朱は満足げに鼻を鳴らし、礼をして退場する。


2. 冬羅/灯良(トウラ)

 次にやってきたのは、猫背ぎみの男性。民族衣装のような不思議な模様が入った、ベージュと茶色の自然素材の服。少し垂れた目元と、桜色の唇――優しい顔立ちだけれど、表情は硬い。お腹の前で両手を組んで、きょろきょろしている。
「おまたせ、トウラ。ごめんね」
 πが声をかけると、男性はぱっと彼のほうを向き、
「ううん、大丈夫。ぜんぜん平気」
「でも、待ち時間長いとペースが狂うでしょ? だから、ごめん」
「……ありがとう」
 男性の表情がほころんで、ゆったりした笑顔になる。春の野原や牧場のような空気が生まれ、見ていて安らぎを感じられる。
「みなさん、こちらがトウラくんです」
 πが男性の背に手を添え、二人いっしょにおじぎをする。体を起こすと、トウラの顔にはまだ緊張が見えるけれど、なんとか微笑みをつくっている。
「トウラには、人生の目的ってある?」
「それ、さっきからずっと考えてたんだけど……πは?」
「俺も、よくわかんないなあ。気分がころころ変わるから」
「あはは、そうだよね」
「そうそう。普通ないって目的なんて。……じゃあ、普段の生活で喜びや幸せを感じるのは、どんなとき?」
「……えっと、好きなものに触れたり、一緒にいたり、ずっとそのことを考えたり……」
「好きなものって、たとえば?」
「食べもの、服、彫り物とかの民芸品、あと、ダンスを見るのも」
「その服、すてきだなって思ってた。手ざわりとか、形とか、俺も好きだな」
「ほんと? πに褒められると、うれしいよ。ありがとう」
「ダンスは、自分ではしないの?」
「少しはしてるけど……」
「人前では踊らない?」
「うん、あんまり気は進まないかな。そんなにうまくないし……」
「そっか。おうちにいることが多いのかな」
「そうだね。でも、旅行は好きだよ」
「どうして好きなの?」
「どうして……えっと、開放的な気持ちになれるし、お土産選びとかも、楽しいし……世界じゅうのお気に入りを集めて、理想の家をつくれたらいいな。いつか……」
「いいね、それ。大好きなものに囲まれて、いつまでも平和に暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
「あはは。そうなったらいいな」
「これくらいで、大丈夫?」
「うん。いろいろありがとう」
 トウラはπに手を振りながら、退場した。


3. 天使(エンジェル)

「いや、クッソつまんねえじゃん! ステージの上でアレが許されんの!? ナメてんだろ!」
 突如乱入してきたその男は、目の覚めるような水色の長い服に、赤茶色のとがった大きな靴という奇抜な出で立ち。黒の短髪は前だけまぶたにかかるくらい長く、その下で切れ長の目がすっと横に流れ、観客を一瞥してすぐ戻る。
「なんですか、その服」πが身を引きながら言う。「不良の特攻服? そんなの着るシーンありましたっけ?」
「ただの私服だよ文句あんのか?」男はπに食ってかかると、目を細め客席をにらみつける。「なんだーお前ら? ガン首そろえてガン飛ばしやがって。不快なんだよ! 人様を無闇やたらにじろじろ見るなって親から教わらなかったか? 言っとくけどお前らに名乗る名なんてねーからな」
「天使(エンジェル)! こら! やめなさい天使!」
 男は黙ってπを見つめた。
「いや、そんな本気で殺意のこもった目、しないでくださいよ……本番中ですから! ね?」
「素でこれなんだよ。悪かったな殺し屋の目で」
「……なんかすいませんでした……じゃああの、『男性A』でいいですか? 大丈夫ですよね? 男性Aさん、あなたの人生の目的は?」
「ねーよそんなもん」
「そこをなんとか、ひねり出して……じゃないと先に進めないんで」
「お前もねーって言ってたじゃん」
「じゃあ、意地でも目的をつくらないのが目的、っていうのはどうですか? 虚無主義者(ニヒリスト)です」
「ナントカ主義みたいなの、一番嫌いだわ」
「わ……わかりました。じゃあ、好きなものは?」
「タコわさ」
「は? いやあの……もっとこう、趣味とか」
「ああ!? オレはタコわさに命かけてんだよ! 殺すぞ! てめータコわさナメてんのか!? ナメんじゃねーよ噛むんだよ! 八百回くらい噛んで味わえ! 毎秒海に感謝しろ! タコを生んでくれた母なる海に!」
「あーもうわかりました、お気持ちはよーくわかりました! ぼくの負けでいいんで帰ってください、これ以上はぼくの心がもちません!」
 ケケケケケ、と笑いながら男は去った。
「大変不快な思いをさせてしまって申し訳ございませんでした。彼もね、アレ、盛り上げようとしてやったことなんです。本当は天使のような子なんですけどね、ちょっと恥ずかしがり屋なもので、どうしてもああいう形に……ヒッ!」
 闇から男の腕が伸び、πの胸ぐらをつかんでいる。
「また言ったな?」
 天使に引かれて、πは消えた。


4. 可音(カノン)

 少し間が空いたあと、空白になった舞台の上へ、四人目の女性が歩いてきた。淡い紫の服に、つややかな黒い髪をした彼女は、ライトの真ん中に立ってもしばらくうつむいたまま、体の横で何度もこぶしを握って呼吸をくり返していたけれど、やがてきっと顔を上げた。眉の端が下がった、ちょっと悲しそうな顔立ちだけど、強くかがやく瞳の光が見る者を射抜く。
「こんにちは、可音(カノン)です。わたしは子どもが好きなので、将来は結婚して、しあわせな家庭を持ちたいなって思っています」
 はじめは硬かった声も、話すうちに色が出てきた――優しさと湿りを帯びた、少し息の多い声。「しあわせ」のことを話すときははにかんで、表情から自然に気持ちが伝わってくる。
「すきなのは、おいしいものと、料理をすること、お洋服、音楽、人とお話をすることです」
「可音ちゃんは、声がいいよね」左から戻ってきたπが言った。「話し方かな。感情豊かで引きこまれる」
「πくん……」
「ごめんね、ひとりにして。不安じゃなかった?」
「……ぐしゃぐしゃだよ!」
 たしかにπは髪も服も乱れている。可音が手で整えてあげた。
「あはは、ありがとうお母さん」
「もう……」可音はうつむき、少し口をとがらせて、「……ほんとはちょっと、不安だった」
「……ごめんね」
 πが可音の頬へ手を伸ばしかけたとき、ふいに可音は顔を上げ、
「あはは! だまされたー!」
「……ふふっ」πは小さく唇を曲げ、「これはやられた! 一本取られました!」と身を引いた。
「もう自己紹介終わったよ」
「ほんとに。えらいね、よくできました!」
「フン。バカにしないで」
 いたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は、観客へきれいに礼をすると、退場した。


5. 璃緒(リオ)

「さーて続きまして五人目は! 女王・璃緒(リオ)様のおなーりー!」
 πが両手のひらを上向けて右へ差し出すと、ライトがそちらへ動き、歩いてくる女性を照らして付き従う。透け感のある水色のリゾートワンピース、なめらかで繊細な長い髪。姿に品があって、口元にうっすら含んだ笑みは、余裕も感じさせる。
「なんで私だけこんな感じなの?」πの隣にきた彼女が訊く。
「風格があるから」
「えー」と言いながら、まんざらでもなさそうな半笑い。「璃緒と申します」美しく一礼した彼女の所作や雰囲気には、なにか人とは一風ちがった、目を惹かれるものがある。「人生の目的」については、
「楽しく生きること。あと、育児もしたい」
「なるほど。結婚願望も強いですか?」
「うーん……結婚は、しなくてもいい」
「え。子供はほしいのに?」
「うん。なんでそこが一緒じゃなきゃいけないんだろうって思うんですよね。結婚しなくても育児ができる仕組みを作ってほしい」
「結婚は嫌なんですか?」
「嫌ではないけど、ひとりが好きなので……したいことが多すぎて時間が足りない! 死ぬまでに育児できるかなあって悩んでます」
「好きなもの・こと・趣味」の質問には、
「舞台鑑賞と、泳ぐことが好きです」
「舞台っていうのは、いまこうしてやってるような?」
「えっと……アイドルのコンサートとか、ライブとか」
「アイドル。どのグループが好きなんですか?」
「某女性アイドルグループですが、語りだすと止まらないので慎みます!」
「なるほど」とπは笑い、「泳ぐのは、ジムとかで?」
「プールも好きだけど、海や川も好き。一番はやっぱり海かなあ」
「夏生まれですもんね、璃緒さん」
「それやっぱり関係あるのかな?」
「あるんじゃないですか? ないとこの劇、企画倒れだし……」
 リリリリリリン!
「おっと。(右上を見て、)璃緒さん、どうやらここまでのようです」
「ふっ。言い方」
「すいません、急き立てるみたいになってしまって。あの鐘打ちめ、女王陛下に対しなんと無礼な――!」
「もういいからそれ」
 じゃ、とπに軽く手を上げ、客席に会釈して璃緒は去った。


6. 明日愛(アスア)

πは居ずまいを正してから、
「では、六人目をお呼びしましょう。明日愛(アスア)さんです、どうぞ――うわっ」
 πが呼んだ瞬間、右から一歩横に動いてその人は現れた。深い緑の服、白い肌に黒のショートカット。
「うわって何?」
「いや、急に横から」
「待機してたから」
 その人の喋り方は淡々としていてロボットみたいだけど、声質はやわらかく、落ち着いていて耳になじむ――草の生えた土の上に、手を置いているみたいだ。
「速くないですか? さっきベル鳴らしたばっかりで――」
「胚(ハイ)。」急に声の芯が固く引きしまった。
「はい。ごめんなさい。……あ、みなさん(客席に向かって)、『胚』っていうのも、わたしの名前です。パイだのハイだの、まぎらわしくてごめんなさい。でも、胚って呼ぶのは明日愛だけだと思うから、覚えなくても――」
「ねえ、早く私の紹介に移って」
「あ、はい。……では、明日愛さんの人生の目的は?」
「世界平和」
「おおー。それって、大統領とかになって叶えるんですか?」
「いいえ。人間には無理だと思います。これまでもずっと無理だったから」
「……? じゃあ、どうするんですか?」
「宇宙人かな」
「宇宙人?」
「悪いことをするのがかっこ悪い、って感覚が当たり前の社会になればいいんじゃないかなって思っていて。法律で決めるとかじゃなくて、自然にそうなれば。結局、ひとりひとりの心が変わらないと、完全には変わらないと思うから。だから宇宙人がやってきて、いっせいにみんなの心をそういう風に変えてくれたらいいと思う」
「ああー……。じゃあ、明日愛さんは宇宙人を召還する役の人ってことですか?」
 πが声を明るくしながら尋ねると、明日愛は小さく笑い、
「そうだね」
「召還の儀式の準備しなきゃ」
「手伝うよ」
「あれ? なんでぼくが手伝われる側?」
「好きなもの・こと・趣味」については、
「読書と、お庭でのんびりすること」
「お話を書くのは?」
「……それは、どうなんでしょうね。苦しさもあるから」
「完璧主義?」
「そう……ですね。その一言でまとめてしまうと、少し違う気はするけれど。私にとって『完璧なもの』とは、誰もが同じように満足するもののことです。たとえば、今ここにいるみなさん全員がこの劇を観て、寸分違わず全く同じ感情を抱く――そういうものです。もちろん、ひとりひとりの心は一つとして同じ形をしていないから、私の思う『完璧』は原理的に実現不可能なんですけど……それでも私は、絶対に届かない、その遠くにあるものだけを『完璧』と呼びたい。届かないのがわかっているから、書くのは苦しいし、書けば書くほど遠ざかるような気がすることもあって、常に絶望と接しているのが書くという行為だけれど、どれだけ足掻いても私ごときには到達できない、その遠さが完璧なるものの価値、そのものなんです。いつかはその矛盾を/距離を、超えたいと思えながら書いているけれど、本当の意味でなにかを『完成』させることは永遠にできないと、はじめからわかってしまっている」
「終わることのない営みなんですね。寄せては返す、波のように。出口の見えない、迷路のように」
「……」ことばが途切れ、沈黙が流れる。
「明日愛さんは、料理も上手ですよね」
「そう?」
「はい。すごく食欲をそそる! とか、おしゃれ! とかっていうよりも、沁みわたってあったかくなるような、やさしい感じの」
「……まあ、良い食材を選ぶようにはしてるよ。普通にスーパーで買える範囲だけど。……もういい? 私、しゃべりすぎた」
 失礼しました、と静かに客席へ礼をして、明日愛は去った。


7. 悧麗(リウラ)

 つづいて七人目、シャンパンゴールドのスーツに身を包んだ男性が、颯爽と登場する。ピンクのシャツ、ふわふわとパーマのかかった明るい色の髪、芸能人みたいににこやかなスマイル。見られることに慣れている、洗練された人、という感じだ。
「こんにちは、リウラです」
 おじぎのしかたもスッキリしていて、服屋の店員さんみたい。
「リウラさんは、舞台慣れしてる感じですよね」
「そうですか? πくんには負けますよー!」
 ははは、と笑いを交わす二人。
「さっそくで申し訳ないんですが、質問いいですか? 時間押してるので……」
「いいですよ! 人生の目的でしたっけ?」
「さすがリウラさん、話が早い!」
「ははは。と言っても、そんなに大したことは答えられませんが……」
「大丈夫です、何度も言ってますけど、質問のほうがおかしいですからねこれ」
「ありがとう。まあ、平和が一番ですよね。ほどほどに充実した仕事をこなして、安定した家庭を持って、趣味もほどほどに楽しんで……」
「悠々自適な生活。でも、『平和』ってところは明日愛さんと一緒ですね」
「いやーそんな、恐れ多い……僕のはせいぜい、『家内安全』くらいですよ」
「世の中を変えたいとは思いませんか?」
「それこそ明日から大統領か教皇にでもしてもらえたら、いろいろきちんと検討しますよ。でもね、しがない一市民ですから……」
「世知辛い世の中だ!」
「いえいえ、少なくとも僕の身の周りは平和だし、ありがたいことですよ」
「謙虚ですてきですね。では、そんなリウラさんの平和な日常を彩る、ご趣味のほうはいかがでしょうか?」
「本当に趣味の範囲ですけど、ファッションや音楽、楽器の演奏、インテリアを選ぶのなんかも好きですね」
「おしゃれさんですもんねー!」
「いえいえ、とんでもございません」
「楽器はなにを? ライブなんかもされてるんですか?」
「いろいろやりますけど、メインはギターです。たまに仲間とスタジオに入って、好きにやってます」
「バンドってぼくはやったことないんですけど、楽しそうですよね! 憧れます!」
「楽しいですよー! バンドになるとやっぱり周りとのバランスが大事なので、他の人の演奏に合うよう、音や弾き方を変えるんです。そうすると一人ではやらなかったことをやることになるから、新しい技術が身について、幅が広がって……」
「おもしろそう! 人に合わせて協力するのがお得意なんですね」
「そうですね、バランスは常に意識しています。服や家具を選ぶときも、チームで仕事をするときも」
「でも、合わせてばかりいるとストレスになりませんか?」
「うーん、それはもちろんゼロじゃないけど……工夫すれば、自分のスタイルに寄せてもらうよう自然に誘導することもできますからね。そこも持ちつ持たれつ、バランスですよ」
「すばらしい! 理想的な社会人ですね。演劇もチームワークだし、リウラさんはスターさながらの大活躍をされるでしょう! ご登場のときを楽しみにしてますね!」
 身ぶり手ぶりをまじえながら、終始にこやかに会話を交わし、リウラは去った。

8. 掬生(スクオ)

 八人目、真っ黒なスーツに、暗い紺色のシャツを着た男性が現れる。頭を包むように丸くカットされた、黒い髪。白くきれいな肌、切りそろえられた前髪が眉を隠し、その下から注意深くのぞくような二つの目は、夜の森に潜むふくろうを思わせる。機械(ロボット)のようにぴたりと停止し、要人の護衛のように素早く無駄のない動作で礼をする。立ち姿は静かで微動だにしない、重みがある。顔立ちは若く見えるけれど、秘められた威厳のようなものが感じられる。
「掬生(スクオ)さん、今日はシックに決まってますね。かっこいい」
「そうですか? ありがとうございます」
「掬生さんはありそうですよね、人生の目的」
「そんなイメージですかね? 僕。うーん……でも、何か成し遂げたいという気持ちはあります」
「それは、仕事とか、なにか他の活動とか?」
「そうですね。仕事もあるでしょうし、自分が打ち込みたいと思ったこと、もしくは人――自分にとって、大切な人。『これだ』と思うものを一つ見つけて、そのために自分を献げる。――って感じですかね?」
最後だけ少し投げやりな感じで、声のトーンを上げてみせる。
「やっぱりかっこいい!」
「はは、やめてください」
「好きなもの・こと・趣味」については、「いろいろありますね」
「いろいろ。たとえば?」
「うーん。誰でもやってるようなことですよ。胸を張って趣味と呼べるほどのものはありません」
「インドアか、アウトドアなら?」
「それは確実に、インドアです。書斎にいることが多いですね。ペンとパソコンが友達です」
「人間のお友達は……?」
「人間ねえ……でも、友達になれる人がいたら、たくさん遊ぶと思います」
「おっ。じゃあ、ぼく立候補しちゃおうかな。このあと連絡先交換しましょう、楽屋で」
「そうですねー。一旦持ち帰って考えさせてもらっていいですか?」
「絶対ダメなやつじゃん!」πは笑いながら大声で言った。
 ありがとうございました、と頭を下げてから掬生は退場した。最後まで落ち着いた佇まいの人で、ちょっとおどけてみせるようなときも、それは一貫して変わらなかった。

9. 匕太(サジタ)

 九番目に登場したのは、ぼさぼさした長めの髪に、派手なデザインが大きくプリントされた開襟シャツの男性。立ち止まったところがスポットライトから少しはみ出していて、πに手招きをされ「あっ」と口を開け位置をずらす。
「匕太です。よろしくお願いします」おじぎはやや左に傾いていて、下手だった。
「匕太さん、めっちゃ私服じゃないですか?」
「あ、はい。昨日考えて変えたんですけど」
「監督に相談しました?」
「あー……まあそんなに大したことじゃないしいいかなって。ダメですかね?」
「どうでしょう。いまのところイエローカードは出てませんが(左手で舞台の右上を示す)」
「一応理由はあって、前の二人がスーツだったじゃないですか。で次の人もスーツなので、こう……観てて飽きるかなって。でもよく考えたらダメかなー。和を乱してますもんね……」
「いやいや、個性も大事ですよ。十二人もいるし、役者ですから、目立っていきましょう!」
「いやー申し訳ない……」頭をかきながら苦笑い。
「では匕太さんの人生の目的は? これちょっと気になります、匕太さんなに考えてるかわからないから」
「あはは。人生の目的かあ……真理に到達することですかね」
「やばい、聞いてもわからない」笑いながらπは言った。
「えーっと、そうですね、抽象的な、感覚に近いものなので説明が難しいんですけど……世界の、真理? なにか、『答え』みたいなものを手に入れたいんですけど、それが具体的に何なのかわからない、というか具体的な『これ』っていう形がないものなんじゃないかって気もすごくしていて。だから、たぶん結局それは手に入らないまま死んでいくと思うんですけど、まあ、それはそれでいいかなあ。手に入らないものを追い続けること自体が目的なんだと思います」
「なるほどー。明日愛さんが言ってたことと似てますね?」
「あーそうですね。それはすごく思います、前提として実現不可能なものを求め続けるっていう……なんか、明日愛さんにはシンパシーを感じる部分も多いんですよ。ただ大きく違うのは、態度です。ぼくはけっこう遊び感覚なところもあって、『絶対に真理を見つける!』っていうよりは、それを追い求めるなかで得られる経験を楽しもうって感じなんですよ」
「先へ進み続ければ、いくらでも未知の景色が見えてくる――終わりなき旅」
「そうです! ぼくが好奇心の赴くままに旅を楽しんでいるとすれば、明日愛さんは耐え忍ぶ巡礼の旅、という感じでしょうか。彼女はすごく真面目です。遊びくらいで息を抜かなきゃやってられない大きな問題と、逃げずに正面から向き合い、考え続けている。そんな感じがします。すごく苦しいだろうなと思う。頭が下がります」
「うーん、リスペクトですね。ぼくも基本的に逃げ腰なので、明日愛さんのことは見習いたいです……それじゃ、次はご趣味など」
「読書と音楽と映画と、演劇も好きです」
「舞台に立つのは初めてでしたっけ?」
「はい。……ん? それって、この『役』への質問ですか? それとも、演じてるぼく?」
「……うーん? どっちだろう。よくわからなくなってきた」
「じゃあ、勘でイエスって言っときますね」
 まだ上手とはいえない、どこかそそっかしいおじぎをして匕太は去った。


10. 被吏(カブリ)

 十人目、グレーのスーツを着た、背の高い男性が現れる。灰色の髪を七三分けにして、銀縁メガネをかけている。細く鋭い目、頬からあごにかけての角張ったライン――感情の読みとれない真顔のまま、黙って小さく礼をする。
「被吏(カブリ)さんは、きっちりスーツですね。さっきの匕太さんの格好はどう思われました?」
「知らん。好きにすればいい」
「お、怒ってます?」
「だったら何だ? お前はお前の仕事をしろ」
「はいっ、すいません……では、被吏さんの人生の目的をお聞かせ願えますでしょうか」
「上り詰めること」
「それは……社長さんになるとか?」
「王だな」
「王? 国王ですか?」
「地球の王」
「おっ……おう……」
「ジョークだ、笑え」
「えっ!? あっ、あはははは! こりゃあ傑作!」
 被吏は真顔のまま、横目でπをじっと見る。
「えーっと……」
「何してる。お客様をお待たせしてるだろうが。次、早く」
「あっはい、すいません!(すごい勢いで頭を下げる)では、好きなもの・こと・趣味は……?」
「古くからあるもの」
「新しいものは、嫌いですか?」
「モノによる。流行り廃りですぐに消えるようなものには興味がない。本当に革新的なものなら、新しいスタンダードとなって後に残る――普遍性があるはずだ。それは本質的に古いものと同じ――長く生き残る可能性があるもの」
「なるほどー、深いお話だ……」
「本当に思ってるか?」
「えっ!? もちろんですよ!」
 あわてているπを尻目に、
「映画」
「えっ? あ、ご趣味ですか? えっと、どんな映画がお好きなんですか?」
「何の救いもない結末の映画か、皮肉や風刺に満ちたコメディ」
「真逆の二つですね」
「悲劇と喜劇は表裏一体だ」
「なるほど……!」
「嫌いなのは、『心温まるイイ話』だな。(腕時計を見て、)以上」
 勝手に礼をして、去っていった。その後ろ姿を見送ったあと、πは「ふーっ」と息をついて、
「怖い人でしたねー。冷や汗かいちゃいました」と額をぬぐってみせ、「気を取り直して、十一人目! アクエさんです、どうぞー!」

11. 悪恵/亜句恵(アクエ)

   こんにちはー、とひかえめな笑顔で登場した女性は、赤い花柄が入った暗色のロングスカートに、上も長袖、髪は顔に沿うような黒のベリーショートだけど、頬や輪郭に丸みがあって、クールさとかわいらしさの両方を感じさせる。
「詰められてましたねー、πくん」
「いやーもう! 見てたなら助けてくださいよ!」
「ごめんごめん。でも、被吏さんはあれが普通だから」
「ぼくだけ嫌われてるわけじゃなく?」
「うん。だれにでもあんな感じだよ」
「そうなんだ……安心しました。アクエさんは話しやすくて、落差がすごい」
「はは。おつかれさま」
「ありがとうございます。アクエさんは人生の目的って、ありますか?」
「うーん、それ難しい質問ですよね。でもいろんなことに興味はあって、つくったり、表現したりすることは好きなので、とりあえずは夢中になれることを見つけて、地道にがんばっていこうかなと……なんかごめんなさいこんなので! 他の方はすごくしっかり回答されてたから、情けないです」
「いやいや大丈夫ですよ! ぼくもそんな感じだし……約一名、ろくに質問にも答えずお客さんを罵倒して帰った輩もいましたし」
「あー。でもあの人はあれでパフォーマンスとして成り立ってるし、なんならわたしはちょっと憧れてるくらいです」
「好きなもの・こと・趣味」については、
「本と映画と音楽と、一人旅も好きです」
「ご自分でなにかつくったりもされてるんですか?」
「そう……ですね。一応ぜんぶ、一通りは……」
「えーすごい! 映画を撮ったり作曲もしたり?」
「一応、一応ね! それでお金を稼げてるとか、そんなレベルじゃないですよ」
「でも、いつかは稼げるようになりたいとか……」
「まあ、それはあわよくば……」
「素敵ですねー。応援してます、がんばってください」
「ありがとうございます」
 アクエが退場すると、πは左手を高々と上げて、「みなさん、大変お待たせいたしました。いよいよラスト、十二人目のご登場――!」
 いくつものスポットライトが舞台から観客席まで縦横無尽に乱れ飛び、会場全体をまだら模様に染め上げる。やがてライトは一ヶ所に重なる――まぶしい光のなかで、顔も輪郭もかき消されてしまった白い影。

12. π(パイ)/胚(はい),etc


「――はい、私です。大体みなさんお判りでしたよね? 茶番に付き合わせてしまってごめんなさい。では改めて自己紹介を――といきたいところですが、いかんせん私には、正式な名前がありません。あるときは『π』と名乗り、ある人は『胚』と呼び、まだほかにも別の名前をもっています。名前だけでなく、姿形も、性別すらも定まらない、私はそういう生き物です。こんなくらげのような生き物が、『人生の目的』などという大層なものを、定められるわけもございません。毎日みんなと楽しく過ごせたらいいな、くらいの気持ちでふわふわと、漂うように生きています。好きなものはアート。でもアートってなんでしょう? 美術館に飾られたものだけがアートだとは思いません。見ているだけで心躍るような服も、身近な人がこぼしたなにげない言葉や仕草も、子供が石ころやゴミを組み合わせてつくった、すぐにその子自身が飽きて蹴り壊してしまうような得体の知れないなにかも――なにもかもアートに見えることがぼくにはあります。世界のあらゆるものが、ぼくの好きなアートになる可能性を秘めている――そう考えると、ぼくは世界のぜんぶが好きなんだと思います。だけど、ぜんぶが好きってことは、ほんとうに好きなものなんてないのかも。自分の『好き』が、よくわかりません。ああでも、人は大好きです。もちろん苦手な人もいるけれど、好きか嫌いかにかかわらず、人はみな家族なんだと思っています。
 この劇の名は、『ファミリーレコード』、家族の記録。記されているのは、十二の場所の物語。これからみなさんは、私たち十二人とともに、十二の時空を巡る旅へと出発します。帰ってこられる保証はありません。怖いですか? だけどみなさんはもうすでに、旅の途上にあるはずです。人生は旅だと、だれかが言った。ここではないどこかへの移動を旅と呼ぶのなら、みなさんひとりひとりがここへ足を運ぶまでの道のりも、この劇に目をとめ、みてみたいと思うまでに経てきた人生のあらゆる時間も、さらにはあなたが生まれるまでに、あなたのご両親や遠いご先祖様が積み重ねてきたあらゆる営みも、すべてが一連なりの旅ではないでしょうか。その旅の目的とは、なんでしょう。途方もなく長い、あるいは短すぎる旅路の果てに、あなたが、人類が目指すものとは? 未知の喜び? 解放と癒し? 自分探し? 使命や目的を見つけ、達成すること? 永遠に平和がつづく、理想郷(ユートピア)? それとも、なにもないのでしょうか。
 私はこの旅を通じて、みなさんと家族になりたいと思っています。こちらは初めからそのつもりですが、みなさんにもそう思ってもらえたら。思うだけでいいんです。家に帰ったら、忘れてしまってもかまいません。いらないときは忘れているけど、たまにふっと思い出して、自分にはいつでも帰れる場所があるんだと思えるような。そのくらい都合よく、ちょっぴりあたたかな存在に、ぼくはなりたい。決まった家はないけれど、かわりにいつでも、どこにいても、心のなかの家に帰ってこられる。――新しくだれかと出会い、そのだれかがいつのまにか大切な人になって、いっしょにいる場所ができる――離ればなれになって、二度と会うことがなくても、思い出せばいつでもその場所はある。そしてまた新たな出会いと、場所を求めて――いつまでもつづいていくそんな流れを、旅と呼びたい。
 もちろんこれは、ぼくの考えにすぎません。『旅』も『家族』も、そんなものじゃない! と思われた方も、いるかもしれない。それももちろん、自由です。これからはじまる物語に、なにを思い、どう感じるかもすべて自由。……そう前置きをした上で、脚本家からの紹介文を一言だけ、付け加えさせていただきます。
『人類が旅した、歴史の記録。
   それは繰り返す罪と罰――寄せては返す、波のように。
   それは再生する物語――盤面に刻まれた溝が奏でる、音楽のように。』
   ファミリーレコード、開演です」
 πが頭上から垂れてきた紐を引くと、舞台は暗転し、幕が開く。それと同時に、けたたましいベルの音が鳴り響く。
 リリリリリリリリリ……

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