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Xの「大事なものは必ず絶滅する人間社会の法則」って僕の活動のことなんじゃ・・・いやまさか

先日、妻に下記の砂鉄さんのXの投稿を教えてもらいました。
「これ、おもしろかったよ」
みたいな感じで。

ちなみに上の画像は「絶滅」をテーマにAIに作っていただきました。



大事なものは必ず絶滅する人間社会の法則


砂鉄さんの投稿は以前も妻に教えてもらって読んだことがあるのですが、言葉がけっこう過激!
ここに一部を引用させてもらおうかと思ったけれども、切り取るとショックを受けてしまう人がいるのでは??
と思ってやめました。

けど、その主張にはメリハリがあって、なるほど・・・
とジワジワ沁みてくるのであります。


確かに、大事なことは流行らないのかも・・・


僕はコンテンポラリーダンスとか、舞踏とか、そういう身体表現のプロデュースなどをやっているのですが、なぜそれをやっているかって
それが大事だと思っているからです。

なにがどう大事かというと、
「人類の舞踊史における重要な分岐点」
「ダンスでしか表現できない余白」
「内的なエネルギー、静的な表現や佇まい」

みたいな切り口で語ることができたりするのですが
自分の感覚として

「年々集客が大変になっているなぁ」

って感じていたりもします。
確かにコロナがあった、お次は円安だ物価高だ、オンラインが充実している、愛好者の高齢化・・・
などなど挙げられる理由はあるのですが。

Dance Exhibition Sapporo  photo yixtape

コストは・・・高いのかも


コンテンポラリーダンスとか舞踏の公演を観ること自体は、そこまでコストが高いとは思わないです。
劇場という非日常な閉鎖空間に一定時間閉じ込められる、上演中にスマホいじったらダメ、料金もそこそこ高い、とかそれはまだ良いと思うんです。

では、なにが高コストなのか。

僕の主観だとそれはおそらく
「文脈」「感受性」「審美眼」「言語化」「対話力」
身体表現を楽しむためには、これらをある程度備えている必要がある、ということなのかな、と。

舞踏公演「ひかり蜘蛛」 photo yixtape

「文脈」
アートって多種多様ですけれども、どんなアートも全体的に「文脈」とか「歴史」「流行」っていう視点があり、ダンスや舞踏にだって文脈はあるのです。
【文脈を知っていることで、はじめて見えてくること】
は確実に存在します。

「感受性」「審美眼」
舞台上に起きている何に着目するのか、どこに面白さを感じたのか。
自分だけの価値基準でものごとをみることができるか。
つまりは自分の価値基準は形成されているのか。
これは何度か身体表現を観ているという自己経験や比較対象も必要になってくると思います。


「言語化」
自分が感じたものを言葉に置き換えられるか。
置き換えたとして、どの言葉を選ぶのか。

「対話力」
相手が言語化したものを一度受け止めることができるかどうか。
受け止めたうえで、相手に言葉を打ち返すことができるか。
この対話や議論のラリー自体を楽しむことができるか。
相手に対してマウントをとらないでいられるか。



「そんなものはダンスじゃない、舞踏じゃない、お前は見る目がない」
みたいなことになると・・・砂鉄さんの言葉を改めてお借りすると


この論調をまともに受け止めるとすると
確かに身体表現のことは話題に出しにくいし、舞踏とかのことを下手に語ると怒られるかもしれません。

そういう意味では、この業界のコストは高いといえるかもしれないと思ってしまいました。
ぐぬぬ・・・

あ、あと身体表現の公演って見れば見るほど理解が深まって楽しめたりするんですよ。
鮭トバみたいに噛めば噛むほど味がでてくる、みたいな。
でも普通の人は全3回公演あったとして、3回とも見ます!
ってならないので、そこも単純に高コストといえるのかっ!?


自分もコストを下げていた


もう一度同じの貼らせてもらったのですが↑


この投稿を読んだ時にですね。
【それでも、大事なものをやり続ける必要がある】
という主張側に立っていた僕は、

「砂鉄さんの意見は理解できるけれども、価値を落としてまでやり続ける意味はあるのだろうか・・・」
なんて考えてですね、気持ちがちょっと沈んだのですよ。
少しだけズーンって。

その時にふと思ったのですよ。

「あれ?でも、自分もすでにやっているか?」
と。



クラブイベントでフリーフード、キャンドルや花でダンスフロア装飾

2005年頃から2か月に1回のペースで始めた
「Spiritual Session」
というイベントがありました。

もともと様々なカルチャーをミックスさせたクラブイベントを札幌でやりたくて、どこか変わったスペースが無いかな、と探していたら

The HAKATA

という、ラウンジにキッチンが備え付けられているクラブを見つけてしまったのです。
「これは面白くなるかもしれんぞ!」
と、仲間を誘ってレギュラーパーティーを始めました。

Culexに作ってもらったフライヤー、今見てもかっこいい


内容としては
フリーフードあり、キャンドルや生け花で空間が埋められ、ダンスショーケースや、生演奏のライブの時間があって、でもDJは毎回ゲストでいろんな人を呼んで。

という混沌とした内容だったのですが、最初からドッカーン!と人気なイベントになってしまって、めちゃくちゃ人が入りました。
それこそ人が多すぎて通路を通るのが大変なくらい人、人、人でした。

このフライヤーは確かCulexが忙しくなってしまって、自分で作ったはず


23時頃になったら、ラウンジのキッチンから色んなフードを提供し始めるわけです。
最初は自分たちで買い出しに行って、フライドポテトとか唐揚げとか冷凍食品とか、そんな感じから始めたと思います。

ところが徐々にフードがエスカレートして、飲食店で働く料理人の友人を集めてフードバトルをしたり、一周年では子羊を丸一匹運んで、友人の弟のシェフがその場で捌くところから調理まで・・・とか

いま考えると消防法的に大丈夫か・・・という


価値を下げているかどうか、でいうと。
クラブイベントの主体はあくまでも音楽のはず。
実際に札幌には素晴らしいクラブやイベントがたくさんあり、ミュージックジャンキーともいえる音楽愛好家な友人たちはたくさんいます。

でも、僕がやったことは音楽よりも料理だったり、装飾だったりが前に飛び出てしまっている。
実際にクラブイベントは苦手とか、普段はあまり行かないという人もたくさん来ていました。


いつもやりたい放題やらせてもらいました



もちろん音楽性にも多少のこだわりはあって、ゲストDJを毎回招いていたのも札幌のシーンで活躍するDJをみんなに知ってもらいたいという気持ちがあり。
表面的には邪道のような演出をしながらも、自分の中では本筋は外してはいないという感覚は一応持っていて。
ただ、音楽の高みというものには到達はできていなかった、これは間違いないし、そもそもそこは目指していなかったように思います。

といっても、当時の自分がどれだけのことを考えてやっていたのかはわからないんですけど。
楽しいことに必死だった、夢中だったのは間違いないかもですが・・・



舞踏の実演もちゃんとあります

「舞踏BAR」舞踏ウェイトレスや白塗り体験・・・


舞踏は1960年前後に生まれた日本の文化で、アングラ文化、はたまた西洋文化へのカウンターアクションなどの中から生まれた踊りになります。
かつては「暗黒舞踏」と呼ばれていたものが、世界中で高い評価を得て「Butoh」になり、現在は「舞踏」として認識されています。

創始者の土方巽さん、大野一雄さんは世界中でカリスマ的な人気を博し、砂鉄さん風に書くとコストは爆上がりしました。

舞踏公演には熱狂的な愛好家がいる一方で、よく知らない人が入り込みにくくなっていたのもまた事実。
実際に僕なんかも1960年代なんてまだ生まれてもいないもんですから、はてさてどう扱ったらよいのか、と思ったりもして。

そこで舞踏家の田仲ハルさんと考えたのが・・・
舞踏BAR(Butoh BAR)でした。

舞踏ウェイトレスがぷるぷる震えながらドリンクを運んでくれる

この写真の通り、舞踏BARではドリンクを舞踏ウェイトレスが運んでくれるのですが、これがまぁ、動きがゆっくり~
ビールが到着したころには、ビールの泡はすっかり無くなっているというバカっぽさのあるイベントでした。

舞踏パスタも爆売れでした

この舞踏BARがまたウケて、舞踏に馴染みのない人がたくさん来てくれたように思います。
「札幌で舞踏BARなんてことをやっていたら、舞踏界の偉い人に怒られるぞ!」
みたいに舞踏ファンみたいな人に言われたこともあったのですが、諸先輩方は意外とこの試みを面白がってくれて、怒られたことはまだありません。

白塗り体験も大人気でした

敷居を下げる。
ということは確かに意識していました。
それを「くだらなくして、コストを下げる」という風には考えてはこなかったですけれども。

あとは表面・外ヅラは下げても、核心はちゃんと大事にしようとしていたように思います。
核心も下げていたらさすがに誰かには怒られていたかも・・・笑

Butoh BARの後は、これまた人気企画だった
「ダンサー5人とドラマー5人の一騎打ち五番勝負」
「ビル一棟丸ごと乗っ取りパフォーマンス」
などに繋がっていくのですが、それはさておき・・・


そういえば「フリースタイルダンジョン」も価値を落としているな


もともと僕はストリートダンス出身ですしHIPHOPが好きなのですが、ここ数年はMCバトルもたまに見るようになって、それでたまたま昨日、こどもと見ていたのですが。

この番組は現在のMCバトルブームの火付け役のひとつとのことで、ラッパーが一気に増えた原因のひとつだそうで。
けっこうTVっぽい演出というか、櫓みたいのに乗って登場してきたりとか、煽りVTRに少しおバカっぽい演出があったり、ルールもRPGゲーム風にしてみたりとか、ラスボスがおバカキャラを演じていたりとか。

あぁ、確かにこれもコストを下げているのかもしれない、と思ったわけです。

だけどすべてが茶番だけで終わっている訳ではなく。
ちゃんとラップへの愛があるし、スキルがあるし、ドラマがある。

シーズン1でラスボス般若さんと焚巻さんが戦った後に、審査員の晋平太さんが涙ながらに「ラッパーってこんなにカッコいいんだっていうのを改めて感じた」
みたいなことを仰っていて(正確には少し違うかもですが)
ここに最後に落とし込めるのだったら、入り口は低くても、出口は高ければよいのか、と。

もちろんこのやり方では、その高さには限界があるのかもしれないけれども。
それでも。


さらにいうと、人間関係にもくだらなさは大事!?


いや、ここまでくるとですね、もはや人間関係もそうなのかな?とか考えてしまうのですが。

例えば僕はいろいろなコミュニティーに顔を出している人間なのですけれども、そのコミュニティーによって自分のキャラや立ち位置が違うという自覚があります。

その中でも、ふざけた経験だったり、恥ずかしい経験とかをお互いに共有している人っていうのは、どうも心の距離が近い気がするのです。
それは単純に付き合っている時間が長いから、ということもあるのかもしれないですけれども。

緊張しない関係性だからなのか、かといって別に相手を尊重しなかったり、リスペクトしていない訳でもないのですが。
あぁ、でもさすがに話を広げすぎな気がするから、このことはまたいずれ検証しよう。


なんか、やっぱ両方大事かという結論


妻と砂鉄さんのおかげでいろいろと考えることができました。
確かに大事なものは衰退するのかもしれない。
絶滅の入り口はすぐ隣で大きな口を開けているのかもしれない。

でも、やり方はある。
それぞれの役割もある。

誰かが正道的なやり方で、専門的に深淵にいざなってくれる
誰かが邪道的なやり方で、複合的に世間の注目と興味を集める


そんで、僕の得意なやり方は邪道そのものじゃないか、と。
でも愛はあるから、愛のある横道。
これが自分の役割なのか、としばし考える。
みたいな。



どちらの道であっても
演者はある意味ではやることは変わらないかもしれない。
ラッパーたちも多少の演出はあれど、最終的には実力が必要とされる。


でも自分はプロデューサーなので、考える必要がある。
役割としては野球のキャッチャーのようなものだ。

演者やアーティストというピッチャーが、どうしたら気持ちよく投球できるか。
相手を研究して、どのように試合を組み立てるのか。
観客の気持ちを高揚させるには何が必要か。
勝利や成功の先に何を見るのか。

ひとつのツイートからそこに到りました。
ご、ご、5000文字越えた・・・

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